クリスチャンになることが全人類のハッピーエンドではない。
なのにクリスチャンになると、なぜか「家族を救わなければならない」とか「友人を救わなければならない」とか「職場の同僚に信仰を証ししなければならない」とかのプレッシャーに晒されたり、そう自分に義務付けたりしてしまう。「キリスト教以外認めない」スタンスになってしまうのだ。それがどれだけ暴力的なことか、一方的なことか、見えなくなってしまう。「宗教とはそういうものだ」としたり顔で言う人もいるけれど、であるなら宗教者は他宗教者を迫害したり殺したりしなければならなくなる。他宗教や無宗教の存在を認めてはいけないのだから。
世の中には「キリスト教で救われる人」もある程度いるけれど、少なくとも現在のキリスト教界や社会構造の中では、絶対に「キリスト教で救われない人」もいる。「キリスト教以外認めない」スタンスだと、そういう人たちを根こそぎ否定し、切り捨て、排除することになる。キリスト教ならぬ切り捨て教だ。
「家族や友人や同僚に伝道してクリスチャンになってもらいたい。絶対そうでなければ困る」という願望を持つのは、「クリスチャンなら当然」ではない。相手のことを真に考えることができていないのだ。視野狭窄に陥った、未熟で身勝手なクリスチャンだと私は思う。
キリスト教以外認めない人は、キリスト教を認めない人を認めないし受け入れない。それは「神の愛」なのだろうか。「キリスト教を認めない人を認めない」のなら、イエス・キリストは十字架刑を回避しただろう。そもそも全人類を救う気がなかったことになるのだから。
こういう話には「神の愛は甘やかしではない」とか「肉の思いに従ってはならない」とかの福音派的テンプレ回答が付きやすい。しかし何が「甘やかし」で、何が「肉の思い」なのか。それは「誰」が、どのような「基準」で決めるのか。そこには福音派的な思いこみや恣意的な判断が内在している。つまり全世界が従うべきルールを、自分たちで決めているのだ。そちらの方が「甘やかし」ではないだろうか。
そういう一方的な決めつけや押し付けが、少なくない人々をキリスト教から遠ざけている。自分たちの基準に合わない人々を断罪し、排除しておきながら、「聞かなかった彼らに問題がある」などよく言えたものだ。自分たちの傲慢さに気づかないクリスチャンの方がよほど「救い」がない。だから私は繰り返し書いているのだ。クリスチャンになることが全人類のハッピーエンドではない、と。
