この「自分を捨てる」の原語の意味や神学的な定義は知らないけれど、聖霊派系教会の現場では、「自分の願望を捨てる」とか「神の御心にのみ従って生きる」とか「自我を捨てる」とかの意味で使われていた。「自我」を捨てたらロボットみたいになってしまうのでは? と今は思うけれど、言っている本人たちはいたって真面目だった(私も本気でそう思っていた)。
つまり、文字通り「自分を捨てる」ということだ。
しかし正直なところ、自己肯定感が低かった私にとって、「自分を捨てる」のはさほど難しいことではなかった。いやむしろ喜んで捨てようと思えた。当時は言語化できなかったけれど、「こんな自分は捨てた方がいい」「こんな自分は要らない」という感覚があったからだ。
それは正確には「神様のため」というより「自分のため」だったと思う。自分自身に我慢できなかったり、持て余していたり、どうにも生きづらかったりした中、ちょうどいい「捨て場所」を見つけたようなものだったから。そこに「神のために」という大義名分が付くなら一石二鳥ではないか、という打算も少なからずあったと思う(人間はどこまで行っても自分勝手な生き物ではないだろうか)。
「捨てる」は「ゴミなどの不要なものを破棄する」という意味で一般的に使われる。要らないもの、邪魔なものだから「捨てる」のだ。しかしキリストが上記の箇所で言った「自分を捨てる」には、「価値あるものをあえて捨てる」という逆のニュアンスがあるはずだ。「普通なら捨てられないものを捨てる」のは難しい。その難しいことをあえてするのがキリストに従う道だ、というわけだ。
であるなら「(キリストのために)自分を捨てる」と言う時、その「自分」には価値がなければならない。少なくとも「自分には価値がある」と自分で思えていなければならない。そう考えると、「こんな自分は捨てた方がいい」と思っていた私は、キリストの言う「自分を捨てる」の基準を満たしていなかったことになる。価値のあるものでなく、価値のないものを「捨て」ようとしていたのだから。
それは神のための尊い「自己犠牲」でなく、神のための尊い自己犠牲に見せかけた「自傷行為」だったのではないだろうか。
