「昔こんな加害行為をしていました。でも相手に謝罪して和解して、今は良好な関係になっています。感謝!」という類の証(あかし)はイイ話として拡散されやすいですが、実際にはイイ話ではありません。被害にあった当事者や、似たような被害経験がある人の傷を何度も抉る行為です。二重加害を「イイ話」に仕立ててはいけません。
元ヤクザの牧師とか、昔「ヤンチャした」けれど今は牧師になっている人とかの「こんなワルだった自分が変えられた話」は、関係ない人には感動モノかもしれません。同じような加害行為をした人には「励まし」にさえなり得るでしょう。けれど、被害を受けた側の人々や、似たような被害経験者にはセカンドレイプになります。なので「昔はこんなワルだった」をアピールポイントにしないで下さい。そんなものはウリでもなんでもありません。そもそもの話、本当に後悔しているなら、過去の加害譚など公の場で安易に話せないはずです。
また、被害者と「和解して」「今は良好な関係になって」いるという認識は、加害側の勝手な思い込みや願望かもしれません。被害の大きさや両者の関係性にもよりますが、そう簡単に「許す」ことなどできなからです。仮に言葉で「許します」と言っても、実際にはわだかまりが残っている可能性があります。そういう被害者感情を丁寧に扱うなら、安易に「和解しました」などと公に公表すべきでありません(そもそもそれを公表する承諾を相手から得ているのでしょうか)。
牧師になった元◯◯(加害性の強い立場)、というアピールはセンセーショナルですが、それを宣伝に利用してしまうところに品性はあるのでしょうか。被害者を繰り返し踏みつけている自覚はあるのでしょうか。そうして得た人気や知名度は、過去の被害者たちの傷の上に成り立っているのです。
そしてこれは主に男性の場合ですが、「昔はヤンチャだった」ことがアピールポイントになるのは、「ヤンチャ」であることがある種の「格好良さ」と認識される、マッチョイズムが背景にあるからです。多少乱暴でガサツな方が「男らしく」、牧師としてリーダーシップを発揮するのにちょうどいい、というような認識です(その証拠に、例えばこれが「元性犯罪者」であるなら、アピールポイントとして使わないどころかできるだけ隠そうとするはずです)。しかしそういったマッチョイズムや暴力性から離れることが、キリスト教信仰の大切な部分なのではないでしょうか。
