キリスト教の一部の教派では「天国」の存在が強調されています。
天国がどんなところで、どんなふうに過ごすのか、あるゲスト講師が具体的に語るのを聞いたことがあります。聖書は「天国」についてそこまで具体的に書いていないと思うのですが、なにせそのゲスト講師は「天国へ行ってきた人」という触れ込みでしたから、聞く側としては「そうなんですね」と言う他ありません。
その話の一つは「天国で住む家の大小は、地上での行いによって決まる」でした。
「天国にはそれぞれに住まいが用意されている」というのはイエス・キリストが語ったことですが、その追加情報として、「地上で頑張って仕えたクリスチャンは豪華な館に住める」だそうです。だから「頑張って教会に仕えなさい」という話になるのですが。しかしそれが本当だとしたら、「天国」は現代の資本主義的競争社会の延長線上にしかないわけです。色々な事情で頑張れなかったクリスチャンは、「天国」でもボロ屋に住まわされるのでしょうか。持てる強者と持たざる弱者の超格差世界は、本当に「天国」なのでしょうか。
こういう話もありました。
「天国で着る白い衣には、地上での良い行いが残らず記されている」
「天国」に行くと、汚れることのない白い衣が与えられるそうです。そしてその表面にはプロジェクション・マッピング的に文字が映し出されて、着る人の「地上での良い行い」が残らず表示されるそうです。しかしこれも、活動の機会に恵まれた人(主に年輩でコネのある男性)と、機会に恵まれなかった人(主に若い人や女性)の、機会不均等をそのまま「天国」に持っていくことになります。「良い行い」のマウント合戦にもなりそうです。やはり競争社会的な「天国」ではないでしょうか。
他にも「地上で頑張った人ほどイエス様の近くに住める」とか、「地上で献身的だった人ほど『天国の礼拝』で重要な役を担う」とかの話もありました。どれも「地上で頑張れば天国で良い思いができる」「能力がある人ほど天国で有利になる」という基本路線です。聞けば聞くほど「天国」に行くことがプレッシャーになりそうです(私はそうでした)。これらは「教会に奉仕させるための装置」として働きます。実のところ、教会にとって都合のいい話なのではないでしょうか。
キリスト教の「天国」や「地獄」の話で盛り上がるのも結構ですが、自分たちが足を乗せているこの現実の世界をしっかり見ているでしょうか。
そこには構造的な(個人の力ではどうにもならない)不平等や格差、差別や搾取が根強く存在しています。「地上での良い行い」をしたくてもできない人が沢山います。「みんな等しく神の子です」と謳う教会の中にも、格差や不平等は存在しています。その構造的な歪みは、祈るだけではどうにもなりません。
そういう現実を無視して、自分たちだけの空想上の「お花畑」を見ていないでしょうか。その状態で「良い行い」ができるとは到底思えないのですが、いかがでしょうか。