ある牧師家庭の話です。
夜、信徒の急用で両親が呼び出され、結局翌日まで帰って来れませんでした。残された子どもたちは夕食も朝食もなく、連絡もなく、不安なまま両親の帰りをひたすら待つしかありませんでした。と、いう話を牧師が(やや誇らしげに)説教でしていて、「主に仕えるには、こうした犠牲が付きものなのです」と結論づけていました。いえ、それは育児放棄という児童虐待ではないでしょうか。
牧師家庭の子は何かと犠牲になりがちです。こういうケースは特にプロテスタントの単立教会に多い印象です。色々なケースを見たり聞いたりしました。残念ながら宗教2世問題の話題に事欠きません。
このケースで言えば、牧師の24時間対応や、信徒の牧師依存体質など、色々原因となる背景があったでしょう。けれどどれだけ牧会で忙しくても、どれだけ時間を取られてしまう体制でも、だから育児放棄になっても仕方がない、という論理にはなりません。根本的な見直しが必要ではないでしょうか。
牧師の子が思春期に入り、それまで抑えていたものが爆発して極度に反抗的になる、というケースもあります。そういう子の素行不良に悩まされた牧師がどうするかと言うと、知り合いの牧師家庭に子を送り込んだり、一時的に(コネで)子の面倒を見てくれる教会に預けたりします。「親子だから難しいのだ」と考えるわけです。いえ本当の解決は、宗教と関係ない環境に子を置いてあげることだと思うのですが。
宗教は基本的に、人を救うものです。けれどその宗教で救われた人が、宗教を使って他者を苦しめてしまうことがあります。しかもその相手が子どもだと「親が神様に仕えて忙しくしているのだから、多少犠牲になっても仕方がない」と言われてしまう傾向があります。子どもには何の権利もないのでしょうか。
その背景にあるのは、「神様も長子であるイエス様を犠牲にされたのだから、我々もそれを模範としなければならない」みたいな考え方かもしれません。アブラハムもイサクを生贄として殺そうとしたではないか、と。
では今でも神様に命じられたら、子どもを殺すべきなのでしょうか。しかしそうやって子どもを犠牲にする姿勢が、これまで数々の「宗教2世問題」を引き起こしてきたのです。安倍元首相銃撃事件はその最たるものです。
この悲しい連鎖反応を、そろそろ断ち切るべきでないでしょうか。
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(キリスト新聞web版)