教会によっては「みんな神の子だから上も下もない」とクリスチャンの平等を謳い、教会を差別もイジメも喧嘩も存在しない「神の国の前身」のように評することがあります。みんな「神の家族」で同じ立場なのだから、仲良く平和を築いていきましょう、争いごとは我らにふさわしくありません、というわけです。
けれど実際には、人間である以上、「牧師ー信徒」や「親ー子」や「男ー女」や「先輩ー後輩」などの力関係が存在しています。例えば同じ年齢、性別の信徒から頼まれたことと、牧師から頼まれたことでは「断りやすさ」が全然違います。場合によっては嫌々引き受けざるを得ないこともあるでしょう。全く「平等」などではありません。
そういう状況を無視して「平等」を謳うことで、そこに存在しているパワーバランスや不公平が、なんとなく見えなくなってしまいます。あるいは訴えても、上記の「争いごとは我らにふさわしくありません」のような言説で封じられてしまいます。しかしそれは不平等な状況に無理やり「平等」というラベルを貼り、表面的に綺麗に見せる、静かな暴力ではないでしょうか。
教会で人間関係のトラブルが起きた時、「みんな平等」というイメージがあると、次のような弊害が起こります。
・立場の強い方の意見が通りやすく、立場の弱い方が結果的に我慢させられる。
・立場の弱い方が訴えると「ただ文句や不平を言っているだけ」と思われやすく、さらに責められる。
下の図を見て下さい。
「立場が強い人」と「立場が弱い人」では実際に持っている「力」が違いますが、「平等だよ」線で無理やり補正されることで、前者は実際より「力がない」ように見え、後者は実際より「力がある」ように見えます。結果、前者は無自覚的に「力」を行使しても見えなくなります。後者は持っていない「力」を持っているとみなされ、実際には不利益を被ります。
例えば「牧師が信徒に厄介な頼みごとをした時」で考えてみましょう。牧師の頼みには「断らせにくくさせる力」が働いています。信徒は表向きは「嫌なら断ればいい」「平等なんだから言いたいことが言えるはず」という立場ですが、実際には断りにくいです。なのに引き受けたら「本人が進んで引き受けてくれた」と思われてしまいます。そこにある葛藤や我慢は、存在しないことにされます。
このような不公平で不平等な「平等」がまかり通るとしたら、そこは「神の国」とは言えないのではないでしょうか。そういう事態を是正することが、教会の務めではないかと私は思います。皆さんはどう考えるでしょうか。