「キリスト教は宗教ではない」という言説がキリスト教界隈の一部で人気です。「私の信仰は日常生活であり、ライフスタイルであり、生き方です。『宗教』なんて言葉で括らないで下さい」という主張です。「宗教」という言葉に一種の堅苦しさやよそよそしさ、あるいは怪しさを抱いているのかもしれません。いや信仰はそんなものではない、もっと生きた、力強い、ダイナミックなものなのだ、と言いたいわけです。
その気持ちは私も理解できます。こんな言葉もあります。
「キリスト教は『宗教(religion)』でなく、『神との関係(relationship)』です。」
レリジョンとリレーションシップを掛けているあたりが上手いなと思います(誰が作ったのかは知りません)。
しかし、自分の信仰を特別なもの、身近なもの、日常のものと感じるのは、信仰者なら当然です。例えばイスラム教の方は、イスラムの習慣や生活スタイルに馴染んでいますから(彼らはプロテスタントのクリスチャンよりずっと厳格な規定に沿って生活しています)、もはや殊更「宗教」だと意識していないように見えます。仏教の方もそうです。創価学会やJW、幸福の科学等の方々も、その信仰が生活に密着したものであればあるほど、自分のしていることを「宗教」だと認識しなくなっているはずです。
その意味で、日々祈ったり、聖書を読んだり、賛美したりすることで、クリスチャンがキリスト教を「宗教」というより「ライフスタイル」と考えるようになるのは、ごく自然なことです。何ら特殊な心の動きではありません。
にもかかわらず、「キリスト教は宗教ではない」と声に出して主張したいのは、「キリスト教は他の宗教とちがって特別なのだ」「自分は本物を信じているのだ(他の宗教は偽物なのだ)」という、他の宗教に対する優越感が内在しているからではないでしょうか。だとしたら独りよがりな、幼稚な動機です。
「キリスト教は宗教ではない」という主張は、そういう信仰者としての幼なさ、考えの足りなさ、独善性を露見させていると私は考えます。
・宗教を秘匿した勧誘になってしまう
そして「キリスト教は宗教ではない」というのは、あくまでクリスチャン側の言説です。同じクリスチャンでなければ通用しません。クリスチャンでない人(特に信仰を持たない人)には意味不明です。なぜならキリスト教は、れっきとした宗教だからです。
教会の中でクリスチャンを相手に語るのと、教会の外で信者でない人を相手に語るのとでは、当然言葉を選ばなければなりません。例えば信者でない友人に、「私のライフスタイル、すごく良いから聞いて!」と言って信仰のことを話したら、相手は「なんだ、結局キリスト教の話(宗教の話)じゃん!」となります。それは一歩まちがうと、「宗教であることを隠した勧誘」になります。
都心の大学でよく問題になるのが、「ボランティア活動をする団体です」「ヨガを研究するグループです」「面白いパーティを開いています」などと言って新入学生を誘い出す、悪質な宗教団体です。初めに宗教団体であることを名乗らず(むしろ秘匿して)、別の活動でグイグイ深入りさせ、抜け出せなくなってから宗教団体であることを明かす、という詐欺まがいの勧誘です。「キリスト教はそんな怪しいものではない」という反論があるかもしれませんが、信者でない人からすれば、同じやり方をされればキリスト教も他の宗教も同じです(実際、正体を隠して大学に入り込むキリスト教会は報告されています)。
ですから「キリスト教は宗教ではない」と思いたい気持ちは胸に秘めておき、外部に向けてはあくまで「宗教としてのキリスト教」を掲げて発言していくべきです。そもそもキリスト教が「宗教」に括られることで、クリスチャンの皆さんが損することは一つもありません。むしろ「宗教ではない」と発言することで失うものの方が、よほど大きいと言えます。
・まとめ
1.「自分の信仰は『生き方』であって『宗教』ではない」と信仰者が思うのは自然なことです。
2.しかし信者でない人にそのスタンスで接すると「宗教であることを隠した勧誘」になり得ます。
3.「宗教としてのキリスト教」を堂々と語っていきましょう。何も損しません。