クリスチャンになってしばらく経つと、「教義的な正しさ」にこだわるようになる人が少なくありません(自分もそうでした)。間違ったこと(例えば間違った祈り方とか、間違った聖書の読み方とか?)をしたくない、と思うのかもしれません。「これが正しい」としっかり理解して、安心したいのかもしれません。
しかし分派が進んだプロテスタントにおいては、多くの「正しさ」が存在します。例えば飲酒を可とする教派があれば、絶対禁酒の教派もあります。ある教会の「正しい」は別の教会の「間違い」になり得ます。その意味で「絶対的な正しさ」を追い求めても意味がありません。「自分は何を選ぶか」という選択があるだけです。
ですからエデンの園のような、「絶対にダメなもの(カルト的な信仰とか)以外はどれを選んでも良い」とおおらかに構えた方が良いのではないか、と個人的に考えています。
そうでないと、他の教派や教会の考え方ややり方を(自分たちと違うというだけの理由で)否定したり非難したりするようになります。「正しさ」に取り憑かれ、がんじがらめになっているのではないでしょうか(以前の私もそうでした)。
もちろん「これだけが唯一正しい(←だいたい自分の教会の教義理解)」と硬く信じることで、心の平安を得られる人もいるでしょう。けれどそれは他者の信仰の自由を認めない、という身勝手さを含んでいます。なぜあなただけが、信仰の自由を認められるのでしょうか。
他人が何をどう信じるかは関係ありません。指摘したところで変わるわけでもありません。カルト的なものや危険なもの、犯罪に繋がるもの等は放っておけませんが、そうでないなら他者の信仰の自由として認めるべきです。
ただ、自分の信仰に対して真摯であればあるほど、「同じキリスト教なのにそんなふうに信じるなんて間違っている!」と同担嫌悪のようなことを言いたくなるのが、信仰の業であることも否定できません。だからこそ分派が進んで、キリスト教は「棲み分けた」のかもしれません。
昔、某教会の牧師さんのところに、何人かで謝罪に行ったことがあります。一人が手土産に高級ワインを持参していました。私は(ワインはマズいのではないか……)と内心焦りましたが案の定、その教会は禁酒禁煙を徹底していましたので、謝罪に行ったはずが余計に怒らせてしまいました。
このようにあるクリスチャンの「誠意」は、別のクリスチャンにとって「悪意」になります。
この場合で言えば、ワインを贈る側は「相手は禁酒喫煙の教会かもしれない」と考えるべきだったでしょう。一方でワインを贈られた側は、「飲酒喫煙を禁じない教会もあるから」とおおらかに受け取るべきだったかもしれません。時に「正しさ」は争いを引き起こします。