洗礼を受けたばかりの人に、すぐ奉仕を割り当てたがる教会が少なくありません。受洗したその日に奉仕を割り当てる教会さえあります。
教会のメンバーシップになったのだから、「キリストのからだの一部」として奉仕を担うべきだ、奉仕を担うことでクリスチャンとして成長できるのだ、といった考え方でしょう。もちろん奉仕(=責任)を担うことで充実感を得たり、所属欲求が満たされたりします。それに教会の維持には様々な奉仕が必要です。受洗者に奉仕を勧めること自体は否定しません。
けれど、受洗してすぐ奉仕が割り当てられると、「教会生活=奉仕」となってしまいます。「役に立つ自分でないと認めてもらえない」「奉仕を頑張っている自分は信仰的だ」「奉仕しない者は教会にふさわしくない」などと考えるようにもなります。他者にそれを当てはめるようにもなります。結果、みんなが奉仕を頑張らなければならなくなり、誰がどの奉仕をどんなふうにやっているかと、相互監視するようにもなります。たいへん窮屈ではないでしょうか。
その行き着く先は「どれだけ奉仕できるか」という能力主義です。いわゆる「できない人」は居られません。冗談に聞こえるかもしれませんが、実際にそうなってしまう教会はあります。
受洗者にすぐ奉仕を割り当てるのは、教会の慢性的なマンパワー不足のせいもあるかもしれません。「本来ならこうあるべきだけれど、人がいないからできていない」といった切実な事情もあるでしょう。けれどそれは、自分の理想のために他者を利用することでもあります。
洗礼は、本人にとっても周囲にとっても嬉しいことでしょう。その喜びと感動と勢いに乗って、さっそく奉仕を始めたくもなります。けれど初めのうちは安易に奉仕を任せないで、「何もしなくてもいい」「居てくれるだけでいい」というメッセージを、時間をかけて伝えていった方が結果的に良いと私は思います。本人にとってだけでなく、教会にとっても。
あるいは受洗直後から、積極的に奉仕を(それも複数)やりたがる人がいるかもしれません。その献身的姿勢は尊敬に値します。けれど上述のような理由で能力主義(戒律主義とも言えるでしょう)に陥り、そのうち「自分はこれだけやっているのに、あの人は何もしてない」などと言い出す確率が高いです。やはり最初の数年は、周囲がブレーキを掛けるくらいがちょうどいいと思います。
オマケ:これから受洗する方が知っておくべきこと
教派や教会によって事情が異なるかもしれませんが、受洗した途端奉仕を(半ば強制的に)割り当てられたり、事前に説明なく「什一献金袋」を渡されたり、信仰生活についてあれこれ口出しされたりするようになります。本来なら事前によく説明されて、しっかり同意を取っておくべき事柄です。これから洗礼を受ける方には、洗礼によって何が変わるのか、あるいは変わらないのか、ちゃんと確認しておくことをお勧めします。