教会は仕えるところか、癒されるところか

2021年11月2日火曜日

教会生活あれこれ

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 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイによる福音書1128節)という聖書の素敵な言葉に癒される思いで教会に来てみたら、奉仕やら活動やらで全然休めず、むしろ心身ともに疲弊してしまうプロテスタント教会の矛盾はどうしたらいいのだろうか。

 特に若い人は、教会に来た初めの日から「この人は何ができるのか」「何をやってくれるのか」という奉仕者視点で見られる節がある(ちなみにここで言う「若い人」とは50代くらいまでを指す)。「休ませてあげよう」でなく、「働いてもらおう」という視点だ。


 わたしが所属していたペンテコステ派教会の牧師は、「教会は客船でなく軍艦だ(=全員に務めがある)」と明言していた。働かない者、役に立たない者は要らない、というこれ以上ないほど明確な宣言だ。教会の役目とは何なのか? と今は首を傾げてしまう。


 教会と全く無縁だった人が、わざわざ教会に足を運ぶのはどういう時か。友人等に誘われて、興味を引かれて来ることもあると思う。だが圧倒的に多いのは、何かで悩んでいる時ではないだろうか。疲れていたり絶望していたり、何らかの救いやヒントを求めていたり。そういう人を(口に出さなくても)いきなり「何の奉仕をしてもらえるか」という目で見るのは、ずいぶん手前勝手だと思う。


「有無を言わさずCS教師にされた」

「日曜日にバイトを入れたら非国民扱い」

「気がつけば、疲れ切っていた」

 一部のプロテスタント教会の人々の生の声だ。


 もちろん教会が教会員の奉仕活動なくして成り立たないのは当然だ。できる範囲のことをして教会に(神に?)貢献するのも大切だと思う。だがクリスチャンが人口の3割も4割も5割もいる国のメガチャーチの華々しい活動に憧れて、日本の正会員50人程度の教会が同じようにしようとするのは、さすがに無理がある。向こうは有り余るほどマンパワーもお金もあるのだから。一方で日本は掃除当番を毎週回すだけで精一杯の教会もある。「こうしたい」という理想に教会を(信徒を)当てはめるのでなく、今目の前にある教会の現実からスタートすべきだ。


 ちなみにこの問題をTwitterで提起して気づいたのは、カトリックとプロテスタントの違いや、プロテスタント各派での違いだ。ここで書いたことが全く当てはまらない教派・教会もあるという。その意味で「教会生活とはこういうもの」「奉仕とはこういうもの」「キリスト教とはこういうもの」と一概に言うこともできない。私は主にペンテコステ派(広義の福音派)教会での経験を元に書いている。


 いずれにせよ、信徒本人の意思やキャパシティを無視して奉仕を押し付けたり、もはや有償レベルの労働を無償でやらせたり、休みたい人を休ませなかったり、その全てを「神のため」と正当化したりするのは、歪んだ教会運営と言わざるを得ない。信徒の皆さんは被害に遭わないよう気をつけてほしい(そもそもの話、教会がそれを是正すべきなのは言うまでもないが)。

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