「神に委ねる」とは

2021年7月6日火曜日

教会生活あれこれ

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 「自分の力で頑張るのでなく神に委ねなさい」と教会で教えられた人が、「委ねなきゃ! 自分でやらないようにしなきゃ!」と頑張る図がある。「リラックスしなきゃ!」と焦るあまり、かえって緊張してしまうのと同じで、たいへん気の毒だ。

 「自分の力でやってはいけない。神に委ねなさい」という禅問答みたいな教えに悩む人は、その手のプロテスタント教会では少なくないと思う。自分もあれこれ考えて、相当悩んだタイプだ。

 しかし結局のところ、目に見えない存在に、目に見える現実の問題を物理的に任せるなんてできないと思う。借金の返済期日が迫っているのに「神様に委ねます。ハレルヤ」なんてできないのと同じで。


 牧師に言われたことに忠実に従い、精一杯がんばる若い男性信徒がいた。日夜奉仕に励み、休むことを知らなかった。そのうち体調を崩したが、それでも奉仕をやめなかった。いつもフラフラに見えた。


 そんな彼に牧師が言い放ったのが、冒頭の言葉だ。

 「自分の力で頑張るのでなく神に委ねなさい」

 それで彼は「自分の力でなく神の力で奉仕しなければ」と余計に悩むようになった。その答えが見出せず、葛藤していた。しかしわたしが「大丈夫?」と声を掛けても、「神様に委ねたので大丈夫です」と気丈な笑顔を見せるだけだった。


 そのしばらく後、彼は本当に倒れてしまった。


 「自分の力」とか「神の力」とか「悪魔の力」とか、ほとんど気持ちの問題でしかない。あるいは主観の問題でしかない。その三つを明確に分けることなんてできない。例えば科学技術の発展は人類の利便性や公衆衛生に大きく貢献し、人間の寿命を大きく伸ばしてきたが、同時に環境破壊も起こしてきた。そして環境破壊が進めば、巡り巡って人間が害を受ける。では科学技術は「神の力」なのか、それとも「悪魔の力」なのか。


 したり顔でそれらしい説明をする人はいる。「心に平安をもたらすのが神の力だ」とか。けれどその「心に平安をもたらす」の再現性は個人によっても状況によっても異なるし、その「平安」という言葉で余計に悩んでしまう人もいる。そもそも主観の問題を一般化してしまうのも無責任だ。他人の人生や生き方にあれこれ口を出すのなら、相応の責任を負わなければならない。


 だから「あなたは自分の力でやっている(=神に委ねていない)」と言われたら、「当たり前でしょ!!」と答えていいと思う。人間のわざはどこまで行っても「自分の力」なのだから。

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