「礼儀正しい」同性愛差別、ジェントルな抑圧者

2021年4月27日火曜日

LGBT差別に反対します

t f B! P L

 「同性愛は○か×かで単純に決められる問題ではない」とか「議論すべき課題だ」とかいう賢そうな意見を時々見かけますが、その発言自体が「同性愛はダメ」というメッセージになっていることにお気づきでしょうか。「賢そうな」と書きましたが、実のところ全然賢くありません。

 これは何千年も議論されてきた哲学的難題でもありませんし、答えが出なくても構わない問題でもありません。現に生きているLGBTの人々が、現に苦しめられている、今この瞬間の問題です。「単純に決められない」などと悠長なことを言っている場合ではありません。


 「議論すべき課題だ」と結論を先延ばしにできるのは、結局のところ「自分には関係ない」ことであり、「結果はどうでもいい」と思っているからです。当事者性が欠落しています。

 そして当事者性を持たないのであれば、そもそもこの件について(誰にでも見られる形で)発言すべきでありません。せめて黙っていましょう。そのまま関係のないところで生きた方がいいと思います。


 「苦しんでいる人がいる」と認識しているのなら、「議論していこう」という話にはならないはずです。また「議論していこう」ということは、「同性愛はダメ」という結論に至る可能性を含んでいます。当事者からすれば、「敵か味方か分からない=敵として見るしかない」という判断になります。その態度は歩み寄りでも何でもありません。


 自分がどちらの側に付くか、立場をはっきりさせるべきです。

 そう聞くと「対立を煽るな」とか「平和を築くべき」とかの綺麗ごとをのたまう自称平和主義者や自称「キリストのしもべ」が必ず湧きますが、これは不毛な対立や争いではありません。抑圧された人々の抑圧に抗うか、逆に抑圧する者になるか、その立場を選ぶことです。中立はあり得ません。


 そしてイエスの教えに倣うキリスト者であれば、どちらの立場に立つべきか、もはや議論の余地はないはずですが。


 わたしはこの記事を「あからさまなLGBT差別者」に向かって書いていません。「議論すべき課題だ」と歩み寄った振りをする、賢い中立者の振りをする、問題解決に乗り出す調停者の振りをする、「丁寧な態度の無自覚的差別者」に向けて書いています。


 あなたがたは「礼儀正しく」反差別の発言をやめさせようとします。理解者の振りをして近づいてきますが、手にはナイフを隠し持っています。物分かりのいい態度でじわじわと被抑圧者をなぶり殺しにしようとします。自分が「ジェントルな抑圧者」だと自覚して、恥を知って下さい。

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