福音を信じれば大丈夫……じゃない

2021年5月4日火曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L

 子どもの頃は割と高価なもの(おもちゃとか)でもポイポイ友達にあげていて、それだけ自分は物に執着しないタイプなんだろうと単純に考えていた。ミニマムライフの先駆け的な。けれど今思うと、物をあげることで相手から感謝されたり、スゴイと言ってもらえたり、仲間に加えてもらったりして安心していた気がする。つまり人との繋がりを物で買っていた。

 大きくなったら物はあげなくなったけれど、代わりに相手のために何かをすることで感謝されたり、認めてもらえたりと、やはり人との繋がりを行為(尽くすこと)で買うようになっていた。三子の魂なんとやら。


 自分のこの傾向のせいで、キリスト教会でも奉仕三昧になったのだと思う。「信仰」とか「献身」とか口ではキレイなことを言いながら、実のところ自分が認めてもらうことだったり、教会の中で何者かになることだったりを求めていただけで。信仰というより、自己実現でしかなかったと思う。


 この心理の根本にあるのは「自分には価値がない」とか「ただでは認めてもらえない」とかの、長年培ってきたネガティブな自己評価だと思う。教会でいくら「あなたは高価で尊い」とか「あなたは神に愛されている」とか言われても、心の底では信じられない。頑張って認めてもらわねば!としか思えない。入信しても、教会生活を送っても、実は「救われてない」現実がそこにある。


☆ ☆ ☆


 「福音を信じて救われる」のはキリスト教的に当たり前の話だけれど、それが具体的にどんな事なのか、みんなよく分かっているのだろうか。何から「救われる」のだろうか。地獄行きが回避されて天国行きになったとか、天の神様と(霊的に?)和解したとか、そういう抽象的なことが教会ではよく言われるけれど、「今」「ここ」で生きているわたしの痛みや悩みは何も変わらないし、前述のような「あなたは高価で尊い」という言葉を心の底では疑ってしまう、その長い生育歴からくる変更し難い人間性みたいなものには誰も触れてくれない(触れてほしいとも思わないが)。


 死後の天国とか、よく分からない神との和解とか、そういう「お預けされた救い」みたいなもので、みんな満足しているのだろうか。


 「瞬間的に変わるものではない」とか「時間はかかるかもしれないけれど、徐々に変えられていく」とかいう意見もある。それは理解できる。キリスト教価値観の中で徐々に変化していく部分はあるだろう。しかし「必ず変わる」とか、「必ず解決できる」とか、断言することはできない(してもいけない)。


 いずれにせよ、「信じればOK」ではない。むしろそこが始まり。ちゃんと始まっているかどうかは分からないけれど。


 しかし小規模な教会になると、入信してすぐに奉仕に駆り出されることがある。来たばかりなのに「来週から奏楽の奉仕に入っていただけませんか」とか。それで奉仕に勤しむと、「あの人は大丈夫」と思われてしまう。新参者なのに、たぶん年齢だけで、中堅やベテランの扱いになってしまうのだ。

 結果、癒されたり回復したりしなければならない部分が、まるまる放置されてしまう。本当は大丈夫じゃないかもしれないのに。

QooQ