自由でない自由祈祷

2021年4月20日火曜日

「祈り」に関する問題

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 定型文の祈りなどの「型」を大切にするカトリックは、自由祈祷を旨とするプロテスタントから「形式的で信仰が形骸化している」と批判されることがあります。しかしプロテスタントの自由祈祷も、「自由」と言う割に「こういうふうに祈るべき」という暗黙的な「型」があります。それは自由に見せかけた定型文祈祷と同じではないでしょうか。他教派にケチをつけている場合ではないと思います。

 わたしはプロテスタントの教会に約20年通ったあと、どんなものか見たくて恐る恐るカトリックのミサに参加してみました(不純な動機ですみません)。教会で批判されていたカトリックの「実際」を確かめたかったのです。


 そして参加して、感動して言葉を失いました。定型文の祈りに込められたその敬虔さ、その厳粛さに圧倒されました。誇張でなく体が震えました。「信仰が形骸化している」などと、(見もしないで)(言われるままに)思っていたことが恥ずかしかったです。


 プロテスタントの方は全員、一度ミサに参加するべきだと思いました。


 プロテスタントは「聖霊が働かれるまま自由に祈る」というようなことを言います。その方が「霊的」で、「今」神様が語っていることに沿って祈ることができるから、と。しかし実際には、その教会の教職者や年長者や先輩たちの祈りを聞いて、それを真似ることが多いです。

 「デキるクリスチャンはこういう場面でこういうことに気を配って祈るものだ」みたいな暗黙のマナーもあります。

 「こう祈れば賞賛されるだろう」という承認欲求もあります。

 聖書の言葉を沢山引用することで聖書通をアピールしたい祈りもあります。

 邪念で一杯ではないでしょうか。だったらそういうことであれこれ悩まない、定型文祈祷の方が純粋な気持ちで祈りに向かえる気がします。


 型が決まっているから形骸化する、型がなくて自由だから形骸化しない、というのは思い込みでしかありません。「型」の有無や礼拝の形式等で他教派を貶めるのは、そろそろやめましょう。


結論:「人には人の、信仰観」(蒼井優さんふうに読んで下さい)


おまけ


 プロテスタントでは「代表の祈り」という、文字通りみんなの前で代表して祈る行為がありますが、これは人によっては結構なプレッシャーです。ちゃんと祈れるだろうか、必要なポイントを漏らさず祈れるだろうか、とドキドキしたりヤキモキしたりします(わたしもそうでした)。そういう人には定型文祈祷の方が気楽で、より「自由」かもしれません。


 逆に定型文祈祷に窮屈を感じる人もいると思います。祈りを制限されたような、縛られた感覚かもしれません。そういう人には自由祈祷が合っていると思います。


 そのあたりの個人の性格的なものと、教派の信仰スタイルのマッチングも信仰生活を送る上で大切です。いろいろな教会を見て回るのは手間ですが、教会生活に興味のある方はそのような観点も検討した方がいいと思います。

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