苦しみの意味?

2021年4月13日火曜日

キリスト教信仰

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 白血病の治療から復帰した池江璃花子選手が、競泳の日本選手権大会(202144日)で優勝し、東京オリンピック代表に内定しました。試合後の「つらくてもしんどくても、努力は必ず報われると感じた」という言葉が、白血病と診断されてからの彼女の2年間を物語っているように思いました。

 彼女が白血病と診断された当時、「神は乗り越えられない試練は与えられない」という聖書の言葉がクリスチャン界隈でも取り上げられましたが、「なんて無責任な言葉だろう」とわたしは違和感を覚えました。「乗り越えられない試練は与えられない」のなら、わたしたちは人生の中で起こる全ての苦難を「乗り越えなければ」ならなくなるからです。それは池江選手に対して「白血病など乗り越えなさい」と冷酷に語りかけることと同じです。


 彼女は結果的に競技に復帰できましたが、「ほら、やっぱり乗り越えられない試練は与えられなかったじゃないか!」などと無神経なことを言うクリスチャンがいないことを願います。


 わたしたちの人生に苦しみは付き物ですが、その全てを「神からの試練」と考えるのはしんどいことです。「神からの試練」であるなら、逃げてはいけないと思うからです。特にそう信じるクリスチャンにとっては。


 聖書は苦しみについていろいろ語っていますが、詩篇119:71が代表的だと思います。


 「苦しみにあったことは私にとって幸いでした」


 これは「苦しかったけれど、そのおかげで○○を得ることができた」みたいに解釈されます。苦しみに意味や価値を見出す考え方の一つです。それ自体は否定しません。けれどそれは本人が後から振り返って納得感や一つの区切りを得るために適用するものです。他人に向かって「その苦しみには大きな意味があって、後の祝福のためなんですよ!」などと押し付けるものではありません。


 似たような文脈で「神の栄光が現されるためです」という箇所とか、ヨナが大魚にのまれた話とか、キリストの受難とかも使われます。どれも「ある目的のために苦しむ必要があった」というロジックです。しかしそうやって苦しみに意味や価値を見出すことは、少なくとも他人が押し付けることではありません。


 贖罪論を刑罰代償説で理解する教会では、「イエス様、こんな自分のために死んで下さって、ありがとうございます……!!」と涙ながらに感謝して祈るのが定番です。そういう光景をわたしもよく見ました(わたし自身もしました)。けれどそれはイエスの苦しみを勝手に肯定して、「苦しんだけど、結果的に良かったですね!」と一方的に意味や価値を見出すことです。イエスが血の通った人間であったことを忘れていないでしょうか。彼は刑罰代小説の方程式に当てはめるピースの一つではありません(刑罰代償説そのものにも問題がありますが、ここでは触れません)。


 さて、苦しむ人に対して、どうしろと聖書は教えているでしょうか。苦しみの高貴な意味についてこんこんと説きなさいと教えているでしょうか。それとも泣く者と共に泣くよう教えているでしょうか。あなたは自分が苦しい時にどうしてほしいでしょうか。

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