コンサバの問題点/自我を殺す?/宗教18禁説

2021年4月6日火曜日

キリスト教信仰

t f B! P L

コンサバの問題点

 キリスト教リベラルとコンサバの対立はしばしばこのように言い換えられます。

 リベラル:人権を大切にするキリスト教(人の権利ばかり主張して神をないがしろにしている)

 コンサバ:神権を大切にするキリスト教(神を優先する為なら人権は無視してもいいと考える)


 しかしそもそもの話、神を大切にすることは人を大切にすること、人を大切にすることは神を大切にすることではないでしょうか? なぜ対立になるのでしょうか? とわたしは単純に疑問に思います。


 「このどちらかを選択せよ」と言われたらわたしは迷わずリベラルを選びますが、それはリベラルに賛同するからでなく、コンサバに賛同できないからです。というのは、コンサバの言う「神優先」が、しばしば「神優先とはこういうことだ」という「私的解釈」に過ぎないからです。自分の都合を神に言わせておきながら「神がこう言っているからこうなんだ」と正当化するのは、とても容認できません。


 それは単なる自分勝手で、人権を考慮していないばかりか、神のことさえ考慮していません。その意味でコンサバは本来的にコンサバ(保守)でさえありません。彼らが一番忌み嫌っている「人間中心主義」を、彼ら自身が体現してしまっているのです(そしてそのことに気づいていないので尚更タチが悪いです)。


 彼らの言い分は(少なくともここ数十年の日本では)少しも変わっていません。コンサバの教職者たちは口を揃えて同じロジック、同じ主張を繰り返すばかりで、そのロジックで自己完結しているので、議論にさえなりません。わたしがコンサバに賛同できないのはそういうところからです。


自我を殺す?


 神権と人権の話でコンサバの人たちが好むロジックの一つはこれです。

「自我を殺してキリストに従うことが、真の祝福に繋がるのだ」


 しかし自我は殺すものでなく、確立するものです。自我がなくて、どうやってキリストに従おうと「判断」したり「選択」したり「決断」したりできるでしょうか? わたしたちが物事を論理立てて系統的に考えることができるのは、自我があるからです。それを殺すのはプログラムを実行するだけの機械になることです。それとも神は、コマンド通りに動くロボット軍団を求めているのでしょうか?


 発達心理学をキリスト教でこねくり回して、人の精神を病ませるのはそろそろ終わりにしましょう。「自我を殺せ」と言われて悩みに悩み、精神のバランスを崩してしまった青少年がどれだけいたことか。皆さんはご存知でしょうか。


宗教18禁説


 少し前に「宗教は18禁にすべき」というツイートを見かけましたが、一理あると思いました。

 全ての宗教教育が子どもにとって有害とは思いませんが、子どもの自我をメチャクチャにしかねない「教え」があるのもまた事実です。「これは良い宗教教育だ」「これは有害な宗教教育だ」という判断は、いったい誰がどうやってするのでしょうか? 子どもに起きた深刻な悪影響の責任は、誰が負うのでしょうか? そのあたりのことがしっかり決まるまで、宗教は自我が確立した成人以降に取り扱えるようにした方がいいのかもしれません。

QooQ