スマートな迫害者

2021年3月30日火曜日

教会生活あれこれ

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 もう7、8年前の話ですが、教会時代のことを当ブログにあれこれ書いていたら、「それは極端なケースだ」と知らない人(多分クリスチャン)からコメントされたことがあります。え、極端な少数のケースだからどうでもいいってこと……? と驚いた覚えがあります。


 その人は「こういうことを語るのはあまり賢くないことですが……」といかにも賢そうな、思慮深そうな書き方をしていました。けれど頭の良さそうな物言いで少数の被害者を切って捨てる自身の冷酷さには気づいていないようでした。

 「いつもキリストに従順でありたい」スマートな迫害者、という印象を受けました。


 残念ながらこの人のような反応は、体験的に少なくありません。地位や将来を保証された人々(多くは教職者)が、スマートな語り口で綺麗なことを語りながら、少数の助けを必要とする人々を切って捨てるのです。

「それは極端なケースだ」

「そんなこと普通は起こらない」

「大変なのはみんな同じだ」

 とか言って。


 ですから教会の中の強者(多くは男性)がスマートな物言いで「愛」とか「憐れみ」とか語るのを聞くと、「この人はどこまで本気なのだろうか、どこまで被害者や弱者や自身に異を唱える者のために心を動かしてくれるのだろうか」と疑ってしまいます。


 以上のことをツイッターで呟きました。「極端なケースだと言われてモヤモヤした」と。すると「そう言われて当然だ。よくそれでライターとか名乗れますね(笑)」という旨の嫌がらせの(そして意味不明な)リプライが付きました。ここにも「スマートな迫害者」がいたか! とズッコケるしかありません。

 しかし実際には、わたしがブログやツイッターで発信している(教会に関する)内容は極端でも何でもありません。わたしがいた系統の教会(主にペンテコステ系)ではよく聞く話ばかりです。ほとんど「あるある」です。

 どれだけ極端に聞こえる話でも、その世界では常識でしかない、というのはよくあることです。


 プロテスタントは教派が分かれすぎていて、実に多種多様です。しかし教会をあちこち渡り歩くのでもない限り、他教派の実情を知る機会はありません(わたしもペンテコステ派にいた頃は、例えば日本基督教団の内情は何一つ知りませんでした)。

 自分が知らないから、聞いたことがないからといって、「極端なケース」「小数例」と決めつけるのは想像力不足です。


 教会生活何十年のベテランでも、その教会(教派)しか知らなければ、キリスト教界のごく断片しか知らないことになります。そういう想像力を働かせないと、他教派のビックリするような話を聞いて「嘘だ」とか「極端な例だ」とかいう視野狭窄的な反応をしてしまいます。それはせっかくの知る機会を、自ら逃してしまうことではないでしょうか。

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