宗教は多少の差はあれ人を変えます。しかしそれが「神の力」からなのか、あるいはそれ以外の要素からなのかはよく分かりません。いきなり夢のないことを言うようですが。
人は人生の中のいろいろなタイミング、いろいろなきっかけで変わっていきます。入学や転校や部活や卒業、就職や転職や結婚や育児や病気など、そのきっかけは様々でしょう。宗教その中の一つに過ぎない、というのがわたしの考えです。
それらのきっかけに共通するのは、「周囲の人間関係が変わる」ことです。人はやはり人から影響を受けるものです。良くも悪くも。
皆さんもそうした人生のあれこれを通して、ご自身の変化を経験してこられたのではないでしょうか。
一方で聖書は「人は(霊的に)新しく生まれ変わる」とか「新しい人になる」とか言っていますから、クリスチャンは何か神がかり的な作用で人格が作り変えられていくのかな、と考えられがちです(実際そう主張する教派もあります)。
けれどわたしの経験からいうと、「神様に変えられました」という主張は不可逆的なものではありません。状況次第で簡単に元に戻ります。「元に戻る」という表現も怪しく、「元々変わっていなかったのでは?」などと邪推してしまう程です。
長く聖職者を務めてきたベテランの人々が、実は長く(聖職者としての経歴と同じくらい長く)性犯罪を犯してきた、という話は枚挙にいとまがありません。性犯罪だけでなく金銭の横領や暴力などもあります。表で聖人ぶった人たちが裏で悪魔の所業に手を染める、という映画みたいな展開は現実にあります。それも少なくありません。
そういう現実を見ると、「新しく生まれ変わった」とか「神様によって作り変えられた」とかいう主張はまず疑わざるを得ません。夢のない話ですが、被害にあってからでは遅いですから夢より現実です。
前述の通り、人は周囲の人間関係に影響されて変わっていきます。
教会にいれば、そこの人たちに影響されます。「神様によって作り変えられた」とまわりの皆が言っていれば、自分もそう思うようになるでしょう。またいわゆる「クリスチャンらしさ」を身につけ、それらしい態度や言動を取るようになるでしょう。そしてそんな自分を見て「変わったなあ」と思うようになるでしょう。
ですからその変化が「神の力」によるものかどうかは、曖昧です。誰に断言できるでしょうか。
そもそもの話ですが、「神様によって作り変えられた」という態度そのものが消極的です。受け身的です。自ら「変化したい」とは思わないのでしょうか。特に「自分は作り変えられる必要がある」と思っているのであれば、自ら行動や態度を変えていく努力が必要です(人格そのものは変えられなくても、行動や態度はすぐにでも変えられます)。
そういうのを丸投げして「神様、わたしを作り変えて下さい」と祈るのは、なんとも都合がいいとわたしは思います。
精神面でなく身体面で考えればもっと分かりやすいでしょう。
たとえば自分の体型を変えたいと思ったら、運動や食事制限といった具体的な意思や行動が継続的に必要になります(疾患等で体型を変えられない場合はもちろんその限りではありません)。なのに「神様、どうかわたしの体型を変えて下さい」と祈って待つだけでしょうか。それで「変わる」と本気で考えるでしょうか。
「神は自ら助く者を助く」という言葉があります。聖書の言葉ではありませんが、良いところを突いていると思います。
さて、あなたはまだ「神様によって作り変えられた」と言うでしょうか。