日本のキリスト教会(プロテスタント)の残念な点の一つとしてしばしば言われるのが、「いろいろクオリティが低い」です。
例えばイベントのポスターがダサいとか、告知動画の編集がイマイチだとか、イベントの運営が下手だとか。アクセサリー等の雑貨のクオリティもカトリックに大きく水を開けられた感があります。これは教会だけでなく、プロテスタント業界全体の問題かもしれません。
しかし、その大元の原因はマンパワーや予算の不足にあるのであって、教会の人たちのセンス云々の問題ではない、とわたしは思います。
「いろいろ活動しようと思っても、人が足りなくてできない」
「外注しようと思っても、予算が足りなくてできない」
その結果が「いろいろクオリティが低い」のだとしたら、そこを揶揄されるのは理不尽でしょう。如何ともし難い問題なのですから。
私はキリスト教会を積極的に擁護する立場でありませんが、その点は気の毒に思います。
そういった構造的問題に目を向けずに(あるいは気づかずに)、根性や信仰(?)で「ハイクオリティな活動をしよう」と息巻く教会(というか牧師)があります。しかしマンパワーや予算が不足したままですから、結局教会の人たちの負担が増えるだけです。
そういう状況では能力のある人が重宝されるようになり、徐々に能力主義へシフトして行きます。結果、人を多く集めたいはずなのに、「貢献できる人しかいられない教会」「少数精鋭(にならざるを得ない)教会」になってしまいます。本末転倒ではないでしょうか。
ですから「いろいろクオリティが高い教会」は、マンパワーも予算も潤沢な大きい教会か、あるいは少数精鋭の疲れた教会かのどちらかが多くなります。そして後者は持続可能性が低いのです。
というわけで冒頭に挙げた「いろいろクオリティが低い教会」の方が、信者にとって居心地が良く、長続きすることになります。ここに、いつまで経っても「教会っていろいろクオリティ低いよね」と言われる構造があります。
おそらく多くの教会では、「もっとクオリティ上げましょうよ」と「いやいや無理しない方がいいですよ」の声が定期的にぶつかっているのではないでしょうか。
そういう状況を知ってる善意のクリスチャンが「無料でHP作りますよ」とか「動画編集で奉仕します」とか声を掛けたりします。完全に善意の人たちです。しかし金銭が発生しませんから、その人たちは遅かれ早かれ疲弊します。業界全体も貧しいままです。そうなると先細りは避けられません。「祈りましょう」とか「主の憐れみを」とかの話でもなく。
物理的な不足は、信仰ではどうにもなりません。
まとめるとこうです。
クオリティの高い教会活動がしたいけれど、人も予算も足りなくてできない
↓
ますますクオリティが下がっていって、上げる術がない
↓
人が集まらないので、衰退のスパイラルから抜けられない
笑いごとではありませんが、「服を買いに行くのに着ていく服がない」という状態に似ています。さて、どうしたらいいでしょうか。
どなたか解決策がありましたらお教え下さい(祈り以外で)。