教会のカルト化を認めたくなかった話

2021年3月2日火曜日

カルト問題

t f B! P L

 自分の教会は今冷静に振り返ると、カルト化してたと言わざるを得ません。けれど当時は認識できていませんでした(言葉にできない違和感のようなものはあったと思いますが)。

 「キリスト教は正統な世界宗教なのだからカルト宗教なはずがない」みたいな思い込みもありました。要は今以上に無知だったのです。


 その無知ゆえ、牧師の問題があれこれ発覚して「カルト化していたのではないか」という声が上がったときも、「いやカルトは言い過ぎでしょ」と否定的でした。自分の人生の全てと言っても過言でなかった場所がカルト宗教だったとは、なかなか認められなかったのです(それだけ愛着のある場所でしたし、自分の生きる場所だと信じていました)。


 「信じる」ことは人を救うこともあれば、ときに狭い所に閉じ込めることもあります。


 ただ悔やまれる事は沢山あります。

 中でも痛恨だったのは、あるユース集会のダンスチーム(10代の女子ばかり)のダンステーマを「セクシーにしよう」と牧師が言い出したときに、異を唱えられなかったことです。もちろん違和感はありましたが「牧師がそう言うならそれもいいのかもしれない」とほとんど思考停止していました。当時、チームの女子たちは相当悩んだはずです。


 幸い、その集会が実現する前に牧師の問題が発覚して、教会自体が立ち行かなくなり、集会どころでなくなりましたが。


 いくら「神様の為」とか「神の国拡大の為」とか言われても、おかしいものはおかしいと言えるだけのリテラシーが信徒には必要だなとつくづく思います。今教会で頑張ってる皆さんにはぜひ考えていただきたい点です。


 「従いづらいことでも従う時に祝福がある」みたいに教会で言われることもあります。「黙って従うことは美徳」「従順な信仰」というわけです。しかし「黙って従うことの素晴らしさ」にばかり注目が集まり、「実際に何をするのか(させられるのか)」についてはあまり吟味されません。だからこそ教会に集う10代の女子たちに「セクシーなダンスを考えろ」などと言えてしまうのです。


 聖書を見てみましょう。「おとなしく黙って従った」人がどれだけいるでしょうか。むしろ黙って従えず、あれこれ異を唱えた人物の方が多いのではないでしょうか。「黙って従う」は聖書より、むしろ日本人的美徳感覚にこそ合致するように思います。


 聖職者も間違えますし、悪いこともしてしまいます。絶対視すべきでありません。「聖職者は神の代弁者」などと妄信してしまうと、本当はすべきでないことまで「神様の為」にしてしまうことになります。


 牧師の言葉に違和感があったとき、あなたは率直に異を唱えられるでしょうか。もし唱えられないとしたら、そこには何か健全でないものがあるかもしれません。そこを客観的に判断できるかどうかが、実はクリスチャンにとって、聖書の知識以上に大切なことだとわたしは思います。

QooQ