人権に対して神権を持ち出すクリスチャンがいます。
「人権より神権が優先される」
「神権より人権を優先するのはただのヒューマニズム」
「人権を主張するクリスチャンは神権を蔑ろにしている」
そういうことを平然と主張するクリスチャンたちは、人権が何を意味するか、ちゃんと理解しているでしょうか。
その人たちの言う神権は、「人間の意志より神の意志を尊重しなければならない」という文脈で使われます。それ自体は問題ではありません。
けれどその人たちの言う人権は、「人間の勝手な欲望」や「身勝手な願望」といった、ネガティブな意味合いを含んでいます。
しかし人権とは本来、虐げられたり差別されたり、奪われたり殺されたりしないで安全に生きられる権利(しごく当然の権利)のことを指します。「好き勝手に堕落して生きる権利」を意味するものではありません。
当然守られるべき権利が守られていない、という状況を見たら、それは「人権侵害です」と声を上げなければなりません。それが人権を守るということです。それに対して「神権が優先される」と言うのは、いったいどういう意味でしょうか。神権とは人権を犯すことでしょうか。であるなら神権を主張するあなたも人権を奪われて、財産や土地や家族や仕事をいきなり奪われても文句は言えません。
そもそも神権だなんだと主張できるのは、自分の人権がしっかり守られているからです。「人権より神権が優先される」と叫ぶあなたも人権が奪われたら叫べなくなります。その矛盾に気付きましょう。
社会問題に関心が高いと、「人権派クリスチャン」などと揶揄されることがあります。主に「神権派」のクリスチャンたちからです。けれどクリスチャンとは本来、人権擁護を使命の一つとしているはずです。キリストがそうだったように。ですからクリスチャンはみんな本来人権派のはずですし、「神権派イコール人権派」のはずです。この二つはそもそも対立関係にはありません。
だいたい、神権を主張するクリスチャンの神権は恣意的です。「神はこう語られる」「神はこれこれを願っておられる」「これが神の定める基準だ」などと言いますが、どれも彼らが都合よく決めたものに過ぎないからです。繰り返しますが、そういうことを主張できるのは、彼らが「信教の自由」という人権に守られているからです。
人権にタダ乗りしておいて神権を叫ぶ、その恥ずかしさにそろそろ気付く時ではないでしょうか。