「教会は最高の神様にお会いするところだから」というような理由でスーツ等のフォーマルな服装のみをドレスコードとする教会があります。教会の総意で決めたことならそれで構わないとわたしは思います。
しかし一方で、HP等に「どなたも歓迎です」と打ち出すのは自己矛盾ではないでしょうか。「一見さん歓迎ですがお断りです」みたいなヘンテコな看板を出しているようなものですから。
実際問題、ドレスコードのことなど何も知らない人がその教会にやって来たら、どうなるでしょうか。
その人がたまたま正装していれば問題ないかもしれません。けれどそうでなかったら、全員フォーマルの中に1人だけカジュアル、みたいな居づらさを与えることになります。わたしだったら穴を探して入り込むところです。
それにこれはドレスコードだけの話ではありません。「神様は最高のお方だ!」と教会のみんなで盛り上がるのは結構ですが、その中に何も知らない新来者がいたらどうなるでしょう。置いてけぼりを食わないでしょうか。
神様が最高のお方がどうかなんて、初めて来る人は知りようがありません。いきなりそんなことを言われても「何のこっちゃ」です。そのあたりの温度差は、教会に長くいる人たちほど敏感でなければならないでしょう。それが「歓迎」する側の最低限の務めだとわたしは思います。
そもそもの話、「どなたも歓迎です」と打ち出しておいて実際に新来者が来たら対応にてんやわんやだったり、牧師に丸投げだったり、放置だったりで、歓迎された感がないことがあります(わたしは実際にそれを何度も経験しました)。
「どなたでも歓迎です」というより、「自分たちにマッチする人は歓迎です」の方が実情に合っているのではないでしょうか。
似たような話で、「最高の神様だからできるだけ良い楽器で、できうる限り高いスキルで賛美すべきだ。半端なものを捧げてはならない」と言う牧師がいました。そして高価な楽器や機材を礼拝堂に揃えていました。
その心掛けは立派かもしれませんが、初めて来て讃美歌も何も知らない、あるいは様々な理由で歌えない人たちはどうしたらいいのでしょう。「上手に歌えなければ教会に来てはいけないんだ」と彼らは思わないでしょうか。
最高の神様だから、わたしたちも「最高」を目指さなければならないのでしょうか。
わたしたちが「最高」のものを捧げなければ、神様は受け入れないのでしょうか。神様はベストを尽くす人(尽くせる人)だけを愛するのでしょうか。
であるならキリスト教とは、相当にハードルの高い宗教です。
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余談ですが、「最高の神様だから最高のスキルで賛美すべき」と言っていた牧師は、別のところで「ボロいギター1本で、風邪でやられた喉で歌っても礼拝の心さえあれば最高の賛美になる」とも言っていました。
ええと、一体どっちなのでしょうか……?