「身内の◯◯が救われる(入信する)のに祈って20年かかった」みたいな言い方をするクリスチャンがいますが、とても一方的な言い方だという自覚はあるでしょうか。
その○○さんが入信されたのは嬉しいことでしょうし、福音派系の教会がよくそういう言い方をするのも知っていますが、そろそろ冷静になって考えてみた方がいいと思います。
「頑なだった父が救われるのに、40年かかりました。ひたすら祈り続けました」
「あれだけ信仰に反対していた母がようやく救われました。祈って30年かかりました」
「夫の救いをこの20年間、ずっと祈っています。絶対に救われると信じます」
どれも教会で言えば「アーメン」とか「祈ります」とか、全面的に励まされるような話です。一緒に喜んだり泣いたりされることもあるでしょう(教会は基本的に優しい人が多いです)。
つまり、みんなこの一方的な考え方に慣れてしまっているのです。それについて考えてみようともしません。そしてエコーチェンバー的にその考え方が強化・固定されていくのです。
しかしこの考え方は詰まるところ、非常に排外的です。信者でない人や外部の人を遠ざけ、分断する原因の一つとなっています。
この考え方のダメなところは次の二点だとわたしは考えます。
①「救われるのに祈って20年かかった」
↓
「祈らなかったら20年以上かかったはず」
↓
「祈ればターゲットを早くクリスチャンにできるのだ」
↓
「他者の救いは、祈りでコントロールできるのだ」
②「救われる」
↓
「クリスチャンでないと救われない」
↓
「クリスチャン以外全員滅びる」
この①と②の結果、「大切な人が滅びてしまわないよう、救われるために祈る」という発想になるわけです。
この場合の「祈る」は、「こうなったらいいなあ〜」というふんわりした願望ではありません。「何年かかっても絶対に救われなければならない。ぶっちゃけ本人の意思など関係ない」というくらい強いものです。「救われない(入信しない)」という選択肢など、祈る側にはありません。
その気持ち自体は、分からないではありません。
しかし結果的に「他者の救いを祈りでコントロールする」という不遜で一方的な袋小路に自分自身を(そして祈る対象をも)追い詰めてしまっているのです。
だから「一方的だ」と、わたしは言うのです。
何を祈るのも自由ですが、それで他者の救いを(現実的に)左右できると考えるべきでありません。クリスチャンにならなければ救われない、幸せになれない、不幸になってしまう、と考えるのもやめた方がいいです。
他者の人生にそこまで介入する権利も義務も、わたしたちにはないのですから。
それに現実的に、現在のキリスト教の範疇では「救われない(教義的な意味でも実際的な意味でも救われない)」人は大量にいます。そういう人たちに思いを馳せることで、あなたの世界は広がっていくでしょう(世界はもともと広いのですが、それに気付くことができるでしょう)。
自分にとって大切な人だけ救われればいい、という狭い世界から、そろそろ出るべきでないかな、とわたしは思います。