聖書が人を追い詰める時

2021年2月1日月曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L

 聖書の言葉の数々は基本的に良いものです。特にキリストの教えは読んでいて元気になったり励まされたりもします。そもそもの話キリスト教の正典ですから、信者にとって「良いもの」でなければちょっと困ってしまいます。


 けれどその聖書の言葉が、時として人を追い詰めたり苦しめたりします。「正典に書いてあるのだから○○しなさい」という形で一方的に信者を追い詰める時があります。特に「愛しなさい」とか、「許しなさい」とかの言葉がそうです。


「愛しなさい」とか「許しなさい」とかの行為は人間関係が(時に加害ー被害といった深刻な関係が)絡みますから、到底無理なことがあります。それに無理に従おうとするならば、自分の心を殺すしかありません。

 しかし自分の心を殺して従うというのは、結局のところ本心ではないのですから、「偽ってはならない」という基本原則に反してしまう気がします。


 それに対して「心が伴っていなくても、とにかく口で『許します』と言い続けていれば、次第に許せるようになるんだ(後から心がついて行くんだ)」みたいなパブロフの犬的トンデモ言説もあります。けれどそれはあくまで「形」にこだわっているだけではないでしょうか。汚いものにとりあえず蓋をしたいだけ、ではないでしょうか。

 それは到底聖書の教えとは言えません。


 苦しんでいる最中の人に、「聖書はこう言っている」とか「相手を許す時にあなたも解放される」とか言うのは、結局その人のためでなく、自分たちが信じる「教え」に従わせたいからです。その人の心がどうなるかなんて全然考えていません。それが「愛」だと言うなら、残念ながらキリスト教は「愛の宗教」とは言えないでしょう。


 聖書がどう言っているかより先に、目の前にいる人がどう言っているか、どう思っているかを考えましょうよ、というお話です。

QooQ