神様が「イマジナリーゴッド」になっていませんか

2021年2月23日火曜日

教会生活あれこれ

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 「教会は人でなく神様に会いに行くところだ」という意見があります。

 魅力的な教職者がいるから行くとか、嫌いな信徒がいるから行かないとか、そういう対人目線で教会を見るべきでない、というような意味なのでしょう。人を見るとつまづくから神様だけ見ていなさい、というといかにも信仰的に聞こえます。


 しかし本当に他人を見ないで神様だけ見たいなら、無人のタイミングを狙って行くしかないでしょう。他人を気にしないわけにいきませんから。しかしそれで「神様に会える」かというと、それも疑問です。

 結局は人の集まりの中で、人を通してわたしたちは神様の輪郭をなぞるしかないと思うからです。


 「二人、三人が集まって祈るところにわたしもいる」とか「兄弟を愛さない者は神をも愛していない」とかの聖書の言葉の通りです。自分と神様だけの関係というのは実はあやふやです。自分でどうにでも想像したり、解釈したりできますから。それより他人を介して、神様の輪郭を何となく感じるのが教会の機能ではないかな、とわたしは考えます。


 人を完全に無視して自分だけの神様を見上げようとするなら(そしてそれが可能なら)、場所はカルト教会だって構わないでしょう。それどころか教会である必要だってありません。寺院でもモスクでも、ショッピングモールでも映画館でも、どこででもできるはずです。


 しかし実際にはそうはいきません。ともに神を見上げる人たちが「教会」を構成するのであって、その集合体を通してわたしたちは神様の存在をなんとなく確認するからです。


 自分一人で「神に会う」というのは、前述の「自分だけの神様」みたいなもので、下手すると「イマジナリーゴッド」になりかねません。自分の空想の中だけの神様、です。聖書の神様でなくて。


「目に見える人を愛さずに目に見えない神を愛することはできない(要約)」という言葉に照らしますと、「教会は人でなく神様に会いに行くところだ」というのは矛盾した表現だと言わざるを得ません。

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