信仰で癒せないキズ

2021年1月26日火曜日

教会生活あれこれ

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 クリスチャンが信仰のことで悩むと「祈ればいい」とか「聖書を読めばいい」とか「牧師に相談すればいい」とかの答えが返ってきがちです。けれど教会活動の中で(祈ったり聖書を読んだり牧師と接したりする中で)苦しめられてきた人たちには、完全に無効だと言わざるを得ません。

 クリスチャンにとって一番の解決方法に思えるものが、一番解決から遠いものになってしまうわけです。


 大きな問題のない教会生活を送ってきた人には想像できないかもしれませんが、祈りや聖書や礼拝や牧師を通して、酷く傷つけられることがあります。カルトでなくても、正統的な教会でも(何が正統かという議論は置くとして)あります。

 いわゆる「教会で傷つけられた人」に対して、教会は何ができるでしょうか。残念ながらほとんどないとわたしは思います。


 「それでも陰ながら祈っています」と心の中で思うのは自由です。けれどそれを本人に伝えるのは、いたずらに苦しめるだけになりかねません。自分の信仰を押し付けるのでなく、相手の訴えに(時に声にならない訴えに)耳を傾けるのが先ではないでしょうか。


 祈りも聖書も礼拝も決して悪いものでなく、むしろ人を(いろいろな意味で)救い得るものです。けれど悲しいことに、人を傷つける道具にもなってしまいます。もちろん問題はそれらの宗教行為自体にでなく、それを扱う人間にあるのですが。


 「クリスチャンの定義は何か」という文脈でよく挙げられるのが「洗礼を受けて教会に籍を置くこと」「教会生活を送ること」「毎週礼拝に参加すること」などです。これは逆に言えば「そうしない(できない)人はクリスチャンでない」となります。

 では教会で傷つけられて教会に通えなくなった人、礼拝できなくなった人、教会籍を失った人は、もはやクリスチャンではないのでしょうか。


 信仰は様々な傷を癒やし得ますが、癒せないものもあります。信仰によって受けた傷がその一つです。

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