反応と応答の違い?

2021年1月7日木曜日

教会生活あれこれ

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 「神様に対して反応(reaction)するのでなく、応答(response)しなさい」とよく教会で言われました。

 反応=行き当たりばったりな行動

 応答=ブレない基準に基づく行動 ←Good!!


 みたいな話だったと思います。

 これだけ見ると「なるほどなぁ〜」と納得しそうです。わたしも聞いた当時は納得しました。

 けれど今振り返ると、自己啓発的な言葉遊びに踊らされていたなあ……と思うわけです。


 「反応」に対して「応答」はいかにも良いこと、聖書的なこと、クリスチャン的なことに思えます。しかし蓋を開けてみると、それは「こういうふうに行動しなさい」という教会が作ったマニュアルの押し付けでしかありません。そのマニュアル通りに行動するのが良いクリスチャンであり、成長した信仰者であり、成熟した人間だ、と言われるのですから。


 これは信徒を一列に並べて、金太郎飴に加工するようなものです。全体主義製造装置です。あるいは一律の(革新的に見える)行動に従わせるという意味で自己啓発的とも言えます。

 いずれにせよ、個人の自由はそうして奪われていきます。教会という信仰の場においてでさえ。


 わたしの教会はそういう「スローガン作り」が上手かったです。


 「反応でなく応答しなさい」

 「祈る時は行動を信じない。行動する時は祈りを信じない」

 「プロセスでなく実を見なさい」

 「感情に従うのでなく、信仰に感情を従わせなさい」


 「神への態度はこうでなければならない」と一つの態度、一つのやり方、一つの考え方しか教えられず、それを全員で守ることが「教会の一致」と言われ、足並みを乱す者は排除されます。そうやってできる共同体は不寛容で窮屈なものです。しかし「一致」を守りたい人、結束を求めたい人にとっては、楽園のような居心地でもあります(そこに信徒間の温度差があります)。


 巷に溢れる情報商材の多くは、要は心理学の基礎をつまみ食いして、用語を変えて、あるいは新しい言葉を作って、「他で聞けない特別なメソッド」というラベルを貼って高く売り付けるようなものです。

 一部の教会も、それと同じようなことをやっています。既存の教義によく分からないメソッドをくっ付けて、「この時代に回復した真理」みたいに言うのです(「霊的戦い」もその文脈で登場しました)。


 自分の教会は「戦略的に祈る」とか、「霊的生活を確立して自己変革する」とか、それらしい言葉が溢れていました。しかし実際のところ、その意味するところは誰も(おそらく言った本人も)分かっていませんでした。それらしい言葉を操ることで「何かすごいことをしている」と満足していたのです。「反応と応答の違い」もそんな虚しい言葉の一つです。





 おそらくわたしの教会は極端すぎたのでしょう。こういう話にピンとこないクリスチャンの方は多いかもしれません。しかし多少の差はあれ、基本的に同じようなことをしている教会は少なくないと思います。ですから教会で語られる教えに若干批判的な目を向けてみるのは、決して損ではないとわたしは思います。

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