「祈ったら(神様から何か)示される」とみんなが言う教会にいたら、
「自分も祈ったら何か示されるに違いない」とか、
「示されないといけない」とか、
「示された感じがしないけど、初めはこういうものなのだろうか」とかいろいろ考えて、悩んでしまうと思います。
それは人によってはなかなかしんどいことです。
「祈ったら示される」というのは、あくまで個々人の心の中の出来事です。
なので「ほら、これこれこうすれば君も示される」と言うことはできません。極めて主観的なものです。
わたしもそう教えられたときは葛藤しました。祈りの中で耳を澄ませたり、心の中に何があるか探ろうとしたり、実は既に示されているのに自分が気付かないだけなのかと不安になったりしました(真面目な少年だったのです)。
あるいは「悔い改めていない罪があるから示されないのか」とか、「霊的成長が足りないから示されないのか」とか、いろいろ考えて可能性は増える一方でした。
しかしまわりの人々、特に牧師や先輩方は「祈ったらこれこれだと示されました」と自信満々に言うではありませんか。やはり、自分に何か問題があるのか……と考えざるを得ませんでした。何が足りないのでしょう。あるいは何が余分なのでしょう。
そんなわたしでしたが、しばらくすると、皆と同じように「祈ったらこれこれだと示されました」と言うようになっていました。もちろん自信満々で、です。
いったい、何が起こったのでしょうか。
初めのうちはわたしも悩みました。これが示しなのか、あれが示しなのか、いや単なる「自分の思い」なのか……等々。
しかし次第に、「これが(神からの)示しなのだ」と自分で思い込むようになりました(良く言えば「信じる」ようになりました)。
何故ならそうしないと教会生活を送っていけないからです。みんなが「祈ったらこれこれだと示されました〜」を連発する中、自分だけ「示されたかどうかよく分かりません……」などとても言えません。後輩信徒ができて、自分が先輩になれば尚更です。
あれほど悩んだのに、後輩信徒には「ほら、心から祈れば、神様が何らかの方法で示して下さるんだよ」などとしたり顔で言っていました。いったい、どの口が言うのでしょう……!!
とにかく「祈ったら示される」は、そうやって再生産されていくのです。
そういう再生産の波の乗れない人、どうしても疑問に感じる人は、遅かれ早かれ教会を離れることになります。前述の通り、教会生活が困難になるからです。
結果、「祈ったら示される」を受け入れる人たちだけが残り、「祈ったら示される」が、エコーチェンバー的に、あるいは確証バイアス的に強化されていくのです。
「祈ったら示される」自体を否定するつもりはありません。
きっとどこかに本物の「祈ったら示される」があるのでしょう。
けれど、そいう組織的な圧力が、意識的にか無意識的にか働いていることは、内部の人間ほど自覚しなければならないとわたしは思います。でないと、それぞれが「示しの捏造」をするようになってしまいますから(現にそうなっているのは否めません)。