99匹のために1匹を犠牲にしてませんか

2021年1月5日火曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L

 教会で何か活動を始める時はだいたい1人でなく、複数人でします。チームを組みます。

 当然ながらチームの中にはいろいろな人がいます。自分と全く同じ人はいません(いたらドッペルゲンガーです)。

 そこには力関係が発生しています。特に日本の教会であれば「年長者」「男性」「教職者」は強く、「子ども」「女性」「平信徒」は弱いです。それらの属性が絡み合って複雑な上下関係が(無言・暗黙のうちに)形成されています。


 ですから「チームで一致して、一つの体として頑張っていきましょう!」みたいな平等感溢れるスローガンが語られても、実際には指示する側とされる側、みたいな力関係が生じています。初めのうちはそこまで露骨でないかもしれませんが、徐々に明らかになります。


 たとえばそのチームでミーティングをするとき、お茶やお菓子を準備するのは誰でしょうか。主に喋る人と主に聞く人は誰でしょうか。発言が重んじられる人とそこまで重んじられない人は誰でしょうか。


 意識してもしなくても、人が集まるところには歴然とした力関係があるのです(良いか悪いかでなく)。

 そして立場の弱い人ほど、不満や苦しいことがあっても正直に言えない、みたいな状況に陥りやすいです。その活動が「良いもの」であれば尚更。


 その活動の結果、多くのクリスチャンが励まされ、信者でない人が教会に来るようになったら、その活動は「神の御業」と呼ばれます。

 すると、「神の祝福を受けた活動」なのですから、リーダーに異を唱えることは「不信仰」とか「不従順」とか、「御国拡大を妨げる者」とか言われかねません。結果、もっと言えなくなってしまいます。


 私たちは「目立つ活動」や「良い活動」や「斬新な活動」の方に目が向きがちで、それを下支えする人たちがどんな気持ちでやっているか、過剰な負担が掛かっていないか、嫌々強制されていないか、といった点は考えません。

 あるいは考えても、「それは必要な犠牲だから」とか「神への献身だから」とかと肯定してしまうのです。


 実際にその活動で、(様々な意味で)救われる人がいるかもしれません。しかしその陰でリーダーに暴言を吐かれ、暴力を振るわれ、過剰な労働(時として無賃金)をさせられているスタッフがいるとしたら、その活動は「良い」ものなのでしょうか。99匹を置いて1匹を探すことでなく、99匹のために1匹を犠牲にすることではないでしょうか。


 ですから申し訳ないですが、カリスマ的な教会が大々的な活動をしてると、「側近の人たちは大丈夫だろうか……?」と真っ先に考えてしまいます。手放しに応援できません。


 さて、教会は目的のために手段を正当化すべきでしょうか。それとも手段をこそ大切にすべきでしょうか。皆さんはどう考えるでしょうか。

QooQ