「可動橋に落ちた子」の話で泣く前に

2021年1月4日月曜日

キリスト教信仰

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 可動橋に誤って落ちた我が子の命か、それとも船の乗客400名の命か……。

 そんな究極の選択を迫られ、泣く泣く我が子を犠牲にした可動橋管理人である父親の話(実話らしいです)が、よく神とイエスの関係にたとえられ、感動話として教会で語られます。福音派・聖霊派ならご存知の方も多いことでしょう。


 けれど、その話を根拠に「信仰の為なら我が子を犠牲にして構わない」という話になってしまうのは、避けていただきたいと切に願います。


 信仰は個々人が持つものです。親の信仰を子も持たねばならない、という世襲制では本来ありません。

 けれど教義が厳格であればあるほど、「なんとしても子に継承させなければ!」という親のエゴが強くなる傾向にあります(それは「この子を救わなければ!」という親なりの独善的な愛情でもあるでしょう)。そして子は信仰を押し付けられ、少なくない犠牲を(特に子ども時代に)払わされることになります。

 いわゆる「宗教2世問題」の根っこは、間違いなくそこにあります。


 昔聞いた話ですが、子を流行り病で亡くした親がこう言ったそうです。

「自分があの時神様の命に従わなかったから、神様が子の命を奪っていかれたのだ。自分が不信仰だったせいで、子を死なせてしまった」

 わたしは違和感を覚えました。子の私物化も甚だしいのではないでしょうか。


 子どもに反発され、親子関係が拗れるのはクリスチャン家庭によく見られます。親による子どもの私物化が大きな原因です。

 それでも子どもは大きくなると、信仰を受け入れるようになることがあります。思春期の頃の反発が嘘だったように「牧師になりたい」と言う子も現れます。

 しかしそれを見て「神様が働いて下さった!」とか「(親の)祈りが届いた!」とか言わないで下さい。子が長く葛藤し、頑張ってきたことなのですから。

 そんな能天気なこと言う暇があるなら、子に謝るべきでしょう。


 そしてもちろん信仰を受け入れない子もいます。しかしその場合、悪いのは子でなく、神でなく、押し付けようとした親自身です。子になんとか悟らせようとするのでなく、自分の目を完全に覆っている梁に気づくべきでしょう。


 それに「なんとしても信仰を継承させる!」なんて肩肘張らなくても、親が毎週教会に通って笑顔で楽しそうにしてたら、子はいつか自然に興味を持つようになるのではないでしょうか。

 親は子の信仰をあれこれ気にするより先に、自分自身の信仰を吟味するべきだとわたしは思います。

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