「コンビニの弁当やパンは添加物が山盛りで体に悪いから、食べたら(自分の体を害するという意味で)罪になる」と主張するクリスチャンのAさんがいました。
ある日、Aさんの子どもが塾の帰り道、お腹が空いてコンビニのパンを買って食べました。それをたまたま知ったAさんは、激怒して「悔い改めなさい」と命じたそうです。それは信仰なのでしょうか、教育なのでしょうか、何なのでしょうか。
自ら体を害することが罪であるなら、過酷な労働環境や劣悪な生活環境から離れられない人は、罪を犯し続けることになります。けれどそれは不可抗力ではないでしょうか。個人の力ではどうにも避けられない事態なのですから。個人の問題でなく、社会の構造的な問題です。
例えばコンビニが存在するのは、それが必要な社会構造になっているからです。そして利用しないと困る人たち、そこで働かないと困る人たちがいます。わたし自身、コンビニがないといろいろ困ってしまいます。
ですから「罪になるからコンビニは利用しない」と「選択」できること自体が、一つの特権だと言えるわけです。
「みんなが普通にやっている◯◯は罪だから、自分はそれを避けて自分自身をきよく保ちたい」みたいな話をクリスチャン界隈でよく聞きます。けれどその○○が避けられるのは、自分に与えられた特権かもしれません(特権は意識しないと気づきにくいものです)。そもそも選択の余地がない人がいるかもしれません。
わたしたちは何かの行為を「罪」だと簡単に言う前に、それが単に個人的な問題なのか、それとも個人ではどうにならない大きな構造的な問題なのか、考えるべきです。
それを考えることなく、単純に「個人の罪」とか「個人の責任」とかと断罪してしまうのは、構造的な問題を隠してしまうことです。たとえば貧困を「働かない怠け者の自己責任」に落とし込むことで、貧困をもたらす社会構造上の歪みを隠してしまいます。
そういう社会の犠牲者に向かって「自己責任だ」とか「お前が悪いのだ」とかと断罪するのは、残酷なことではないでしょうか。そこに「神の愛」はあるのでしょうか。
教会がそれを肯定するなら、社会にとって教会は害悪でしかありません。
教会で教えられた「罪」の数々が、本当に個人の身勝手な欲望によるものなのか、実は避けがたい大きな構造を背景とするものなのか、クリスチャン一人一人がよく考えるべきです。
でないと本当は「罪」でないものを断罪し、責められるべきでない人たちを責め、傷つけてしまうかもしれません。そうであれば「罪」を犯しているのは、わたしたちの方です。