禁断の木の実を最初に食べたのがエバだった、という点を強調して女性の方が(男性より)誘惑に陥りやすいとか、劣っているとか、罪深いとか言うのは、それ自体がだいぶ大雑把な話だ。
それを言うなら、神に咎められた時にアダムがエバに責任転嫁した点を強調して、男性はいつも女性のせいにするとか、自分の非を認めないとか、言い逃れするとか、一括りに言われても仕方がない。
「聖書がそう言っているのだから仕方がないだろ」と女性の劣等性を主張する人もいるけれど、単に「エバがそうだった」だけであり、「アダムがそうだった」だけの話だ。あなたはエバではないし、アダムではない。
始祖の人間であるアダムとエバ、あるいはノアとその家族たちの在り方を、全人類の代表みたいに考える向きがある。男はこういうもの、女はこういうもの、父はこういうもの、みたいな。しかしそれも大雑把な話だ。
しかしその大雑把な解釈を元に、男尊女卑や植民地支配や奴隷制を肯定してきた歴史がキリスト教にはある。その読み方を否定することは、聖書やキリスト教を否定することではない。むしろ時代にふさわしくアップデートすることだ。けれど「これだからリベラルは」と揶揄されてしまうのは何故なのか。
2020年11月の米大統領選では、アメリカの分断の深さをまざまざと見せつけられたと思う。
わたしたちの周囲には、様々な分断がある。
男性と女性(とそのどちらにも分類されない性)の分断も、普段あまり言語化されないかもしれないけれど、非常に深いものがある。他にも健常者と障害者、「日本人」とミックスルーツ、正規雇用と非正規雇用、都市部と農村部、などなど……。
その分断の幾つかは、間違いなくキリスト教が作ってきたものだ。キリスト教はそろそろ分断を深めるのをやめて、逆に分断されてきたものを再び「繋ぎ合わせる」ことに専心すべきでないかとわたしは思う。