贖罪論の危うさ

2020年12月15日火曜日

教会生活あれこれ

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 贖罪論の説明として「1億円の借金を帳消しにしてもらったようなもの」というのがある(福音派や聖霊派の一部はそういう説明を好む)。

 最初はそれでホッと安心できるかもしれない。けれど、いつしか「死ぬまでその恩義に報いなければならない」というプレッシャーとなって(教会等での)無償奉仕に駆り立てられることがある。その動機は、感謝というより負い目。


 要は「(救われた恩義は)お金で返せないから働いて返そう」というような話になってしまう、ということ。そうなると教会生活は感謝や喜びというより、借金返済に追われる日々にようになってしまう。旧約聖書の「動物の生贄を捧げるごとに自分たちの罪が思い出された(要約)」という記述に似ている。捧げても捧げても、負い目ばかりが強くなるのだ。


 教会での奉仕も、まだ足りない、まだ足りない、となってしまう。


 似たような文脈で「神様があなたの代わりに死んで下さったのだから感謝しなさい。喜びなさい」と感謝や喜びを強要することにもなる。正直やめてほしい。「救われた」と言う割にあれしろ、これしろの強要ばかりでは、一体何から救われたのか分からない。


 それにそれは見方を変えると、「神の許しを信じていない」とも言える。「負い目を感じる」とは、「許されていると思えない」ということだから。それはかえって信仰でなく、不信仰なのではないだろうか。


 いずれにしろ、教会で「~しなければならない」という言い方を聞いたら注意すべき。贖罪論は、人を負い目と悔恨の穴に閉じ込めるためのものではない。

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