前進も後退も相対的なもの。誰かにとっての前進は、誰かにとって後退かもしれない。誰かにとっての善が、誰かにとって悪であるように。
だから他人に安易に「成長したね」とか「成長してないじゃん」とか言うべきでない。無責任な発言になってしまう。
あなたの成長と他の誰かの成長、あなたの目指すところと他の誰かが目指すところは、全然違うかもしれない。完全に逆方向かもしれない。それを同じ物差しで測ることはできない。
解散したSMAPも歌っていた。ナンバーワンにならなくていい、もともと特別なオンリーワンだ、と。
「霊的成長」を強調するプロテスタント教会もある。けれどその「成長」の基準や評価は曖昧だ。
賛美の奉仕を長年しているとか、祈りが上手だとか、教会学校の先生をしているとか、的確な発言をするとか、長老職に就いているとか、そういう目立つ要素で「成長している」と思われがちだからだ。
けれど本来、そういったことは成長とイコールではない。
牧会歴数十年のベテラン教職者がとんでもない性犯罪を犯し続けていた、というケースは枚挙にいとまがない。他にも脱税や横領やDVなど、教会のリーダーたちが犯してきた罪(教義的な罪というより法に触れる犯罪)は数えきれない。このことからも、立場や経験や見えるところがそのまま信仰深さや「霊的成長」に直結するものでないのは明らかだ。
正直なところ、「霊的」なことはみんなよく分からないだろう。見えないし、感じないのだから。
だからこそ見える部分で判断してしまうのだが(「見えなくても感じるものだ」という種類の主観的な話は、ここではご遠慮いただきたい)。
それにそもそも、自分自身の「霊性」だってよく分からないではないか。自分の「霊性」を的確に(ただの主観でなく)「これだ」と言い切れる人などいるだろうか。まして他人のそれを言い切れる人など。
だからあまり「霊的成長」という言葉に振り回されない方がいいと思う。教会でそういうプレッシャーに押しつぶされそうになっている人に、どうかこの文章が届いてほしい。