キリスト教の話で、「Aだ」と言うと「いやBだ」と否定されることがある。そして「聖書にこう書いてあるでしょう」とさも当たり前のことのように言われる。
しかし「聖書にどう書いてあるか」と「それを自分がどう解釈しているか」をイコールにしてはいけない。聖書の唯一絶対の「正しい」解釈があるなら、キリスト教はこんなに分派していないから。
何かを否定する根拠として「聖書にこう書いてあるから」とか「教会でそう聞いたから」とか「みんながそう言ってるから(←みんなって誰やねん!!)」とかしか言えないとしたら、それは自分で考える事をやめてしまっていると思う。個人の信仰ならそれでいいかもしれない。けれど他人の意見を否定するだけの根拠にはならない。
ここで「信仰は論理で理解するものでなく、ただ純粋に信じるものだ」という意見を持ち出すのであれば、「福音の三要素」みたいな「福音理解」とか、パウロ書簡の「論理的分析」とか、教会で開かれる「聖書の学び」とか、全部やめるべき。「ただ純粋に信じる」だけなら、論理は必要ないのだから。
自分が矛盾したことを言っていないかどうか、それを判別するくらいの「論理」はいずれにせよ必要になのだ。