教会で大きな問題が起こった時、信徒は皆ダメージが大きかったけれど、待ったなしで対処しなければならない事案(特に金銭面)が山積みで、悲嘆に暮れている暇がなかった。当時の自分は「起こった事は仕方ないから、とにかく前向きに取り組まなければならない」と思っていた。そしてそう語りかけたけれど、何人かから「前向きになんかなれない」と強く反発された。
当時の自分は「後向きになってもどうにもならないでしょ」とその人達を批判的に見ていた。けれど対処すべき事案が大方片付き、教会も解散が決まった頃、余裕ができたせいか、自分が受けたダメージがやっと実感されてきた。そしてそれが想像以上に大きく、その後数年に渡って、わたしは前向きな気持ちになれなかった。キリスト教関連の全てに対しても怒りや批判が湧き上がり続けていた。その時やっと、彼らの気持ちが理解できた気がした。
自分がしたのが、傷を負って倒れている人に「ちゃんと立って歩きなさい」と強いる事だったと気づいて申し訳なくなった。けれど散々揉めて顔も見たくない関係になってしまった人ばかりで、もう再会できないと思う。ちなみに「神の家族なんて嘘っぱち」と確信したのはこの出来事を通してだった。
というわけで、悩んでる人に「前向きになりなさい」とか助言しても意味がないと思う。後向きにしかなれないのはそれなりに理由があるから。それでもいつか、前を向くべき時が来るとは思う。けれどそれを決めるのは本人であって、周りではない。という事は対人援助に関わる人は知っておいた方がいいと思う。
教会や教職に対して過度に攻撃的な人がいる(かつての自分のように)。それは確かに見ていて気持ちのいいものでなく、対処に困りもする。けれど本人にもどうにもならない面があり、相応の理由があるのだ、と想像するくらいの配慮は、同じキリスト者として持っていたい。
教会批判とか牧師批判とかを、単に嫌がらせとか快楽とかでやる人は滅多にいないと思う。相応の理由があり、訴えたい切実な何かがあってやっているはずだ。その表れが攻撃的な言葉だと受け取りにくいかもしれないけど、その背後に何があるんだろう、と少しでも考えてもらえたら有り難い、と自分は思う。