「異端そのものは何ら問題ないし危険でもない」というわたしの説に対して「いやいや異端は大問題だ」と主張する人がいるけれど、ある派から見れば自分も異端だと思われている事実を忘れていると思う。
正統も異端も相対的なものだし、時代によって変遷してきたから固定的でもない。
「自分のところが正しい」「我こそ正統」という思い込みから、「他は間違っている=危険だ」という発想になっているように思う。しかし各派が互いにそう断罪し合っていたら、溝は深まるばかり。
何度でも書くけど、「正統である」ことと「危険でない」ことは全くイコールでない。正統派教会がカルト化すれば害悪でしかない。だったらカルト化してない異端的教会の方が絶対安全だし快適だ。「異端」の認識を改めるべきだと思う。
それでも「異端は大問題だ」と言うなら、具体的に何がどう大問題なのか、分かりやすく示してほしい。はいどうぞ。
中世の異端審問は、ローランド風に言えば「俺か、俺以外か」みたいな感じだ。「コミュニティ内全員カトリック教徒」という圧倒的マジョリティの中、ズレた人を(そうみなされた人を)見つけ出して裁判にかけるという、「足並みを揃えない奴を追い出す=教えの統制を守る」為のものだった。
ただ一つの正しい教派(当時で言えばカトリック)に従うか、従わないか、さあどっち? という世界だ。
しかし現代は宗教改革以降、無数に枝分かれした教派が乱立しており、もはや当時の異端審問みたいなものは成り立たない。ぶっちゃけて言うと、現代は「総異端時代」だから。
例えばルーテル派とペンテコステ派が同じプロテスタントに括られるのは現場レベルでは相当無理がある。どう考えても互いに「異端」ではないだろうか。
「正統」と「異端」の境界は、限りなくあやふやになっている。
その中で特別にトラブルを起こす「異端」を問題視し、「やっぱりあそこは異端だから」と自分たちと切り離し、「異端=悪いもの」という認識を強めているのが現状だと思う。しかし前述の通り、自分たちも(他から見れば)異端なのだ、という事実がすっぽ抜けてしまっている。「異端」という言葉の悪い響きも影響しているかもしれない。
「危ない信仰」は確かに問題を起こしやすい。カルト化の危険性も高いだろう。しかし「違う信仰」なのは、全然問題ではない。ただ「違う」だけなのだから。さて、「総異端時代」へようこそ。
・今回の参考文献
異端の時代――正統のかたちを求めて (岩波新書)
著:森本あんり
・以下余談
自分はプロテスタントが長いせいか、カトリックの教義には正直納得できない部分がある。しかし間違っているとかおかしいとかとは思わない。単に「違う信仰なんだ」と理解するだけだ。こき下ろしたり揶揄したり批判したりする理由はない。
クリスチャンがみんなそういうスタンスなら、平和に共存していけるのではないだろうか。
プロテスタントの中でも、たとえば聖餐理解の違いを指摘して「そんなのただのゴハンじゃん」とか馬鹿にする人がいるけれど、プロテスタントも相当枝分かれが進んでいるのだから、もう「違う信仰なんだ」くらいに思っておいた方がいいと思う。
他人の信仰を馬鹿にしてはいけない。