「○○は悪魔のしわざだ」というような呪術的信仰が、本当の原因を覆い隠してしまうことがある。例えば治療すべき症状なのに「悪魔のしわざだ」と言って、「悪霊追い出し」をしてしまうような。本人は治療しないことで、いつまでもその症状に苦しむ。
呪術的信仰が、解決から程遠いところへ論点をズラしてしまうのだ。
悪魔やサタンを持ち出すと、どうしても性善説に傾く。人の問題でなく、「悪魔のせい」にしてしまうからだ。結果、自分の中の悪や問題から目を背けることになる。自分は悪くない、と考えるようになる。
自分がやらかしてしまったことについては「悪魔のしわざだった(=自分は悪くない)」と言って謝らない。ミスについては「自分はまだまだ未熟で…」と謙遜ぶる。そういう人が実際にいるが、都合が良すぎる。
しかし「○○は悪魔のしわざ」という解釈が通用するなら、たとえば放蕩息子の放蕩も、ダビデによるウリヤ謀殺も、全部「悪魔のしわざ(=本人たちの問題ではない)」にできてしまう。そういうのがまかり通ると、イエスの十字架とか罪の許しとか悔い改めとか、意味のないものになる。
もう一つ「○○は悪魔のしわざ」で注意すべきは、強迫的になってしまうことだ。
「自分は今悪魔の誘惑を受けていないだろうか」
「悪魔の侵入を許していないだろうか」
そういうことが絶えず気になってしまい、「イエスの御名によって悪魔よ退け」的な祈り(?)を四六時中唱え続けることになる。
それは信仰なのか、強迫症なのか。