人を救うのは「神学」か、「神の愛」か

2020年10月23日金曜日

キリスト教信仰

t f B! P L

神学が人を救うのではない。神の愛が人を救うのだ」というのはいかにも信仰的に聞こえるけれど、神の愛を理解するのに神学は欠かせない。今キリスト教信仰を持っている人は例外なく、何らかの神学に触れている。神学を通して神の愛を理解している。だから「神学が人を救うのでない」というのは、それ自体が矛盾している。

 神学を軽視することで、自分勝手な神理解、独善的な信仰観に陥りやすくなる。神学は岩に穿つ楔とロープのようなもの。命を守る装備なしに、登山したいと思うだろうか。


 日本に住むわたしたちが一口に「神学」と言う時、それはほぼ「西欧の白人男性中心に築き上げられてきた神学」を指す。当たり前すぎて誰も意識していない点だろう。しかし現実にそれでは救われない人がいて、だからこそ黒人神学やフェミニズム神学、クィア神学等の解放の神学が生まれてきた。

 神学は聖書を解釈し、人を救うための試み。当然様々な角度から、視座から、展開されなければならない。「ただ一つの正しい神学」など存在しない。ただ一つの正義が存在しないように。


 なのに、たとえばフェミニズム神学を「偏った神学だ」と言う人がいる。しかしフェミニズム神学が偏っているなら、西欧の白人男性中心に築き上げられてきた神学もまた「偏った神学」と言わなければならないだろう。敵意をもって投げたブーメランは、返ってきてあなた自身に突き刺さる。


 前述の通り、神学を軽視する人も神学によって救われている。

 それなのに「必要なことは聖霊様が教えて下さる」というスタンスを主張し、新しく学ぼうとしない人たちがいる。「神様に直接語ってもらうことで十分」というわけだ。しかし何を「神様に直接語ってもらう」かは、結局その人自身が決め、判断している。それは本当に「神様の直接の教え」と言えるのだろうか。


 問題は、そこで進歩が止まってしまっている点だと思う。様々な神学が開拓される世界の流れに完全に乗り遅れてしまっている。もったいないと言うほかない。

 ただ、先端の神学を学ぼうとしても、手に入る情報や書籍が少ない、という現実的な問題はある。日本のキリスト教界の課題の一つだろう。


 キリスト教書店を眺めてみると、相当古い神学書がいまだ棚を占めていて、新刊は「○○の祈り」とかの実践的なものがほとんどだ。海外の先端の神学書がもっと翻訳されて、日本のクリスチャンの知識や理解や見識が底上げされていかなければならないとは思う。

QooQ