信仰のパラドックス

2020年10月16日金曜日

キリスト教信仰

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  遠藤周作の「沈黙」の主人公、ロドリゴ神父について考えてみたい。


 「棄教しなければ殺す」と宣告されたなら、彼は迷わず死を選んだと思う。殉教者として死ぬことになるから。言い方が悪いけれど、それはそれで「名誉」になる。


 しかし実際には、「棄教しなければ他の者たち(捕まった信者たち)を殺す」と宣告された。自分の信仰を貫いたら、信者たちを死なせてしまう。彼はやむなく棄教した。


 殉教が「名誉」だとしたら、棄教は「不名誉」だろう。しかし他者の命を救うための棄教は、それ自体が信仰の行いなのではないだろうか?


 信仰を全うするために信仰を捨てる、信仰を捨てることで信仰を全うする、というパラドックスがここにある。実際にそういう状況に置かれたらたまらない。けれど信仰生活のリアルは、こういうところにあると思う。


「沈黙」がキリスト教界の一部で不評なのは、このロドリゴ神父の棄教が「敗北」とか「失敗」とかに見えるからだろう。しかし考えてみれば、キリストも十字架で「敗北」したようなものではなかったか。

 信仰における「敗北」や「失敗」とは、何なのか。


 「繁栄の神学」に傾倒すると、見えるところの「勝利」や「成功」や「豊さ」ばかりが強調されて、「敗北」や「失敗」といったネガティブな言葉が忌避されるようになる。信仰に歩めば必ず「祝福」されるはずで、「祝福」とは健康と富と満ち足りた暮らしにある、と考えるからだ。


 しかし生きていれば勝利や成功ばかりでなく、ネガティブな事だっていろいろ起こる。ロドリコ神父は不信仰だからあんな目に遭ったのだろうか。いや、むしろ信仰に篤かったからこそ直面した悲劇だったろう。

 

 キリストの敗北は、そんな我らのためでもあったはずだと思う。

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