救いのためなら何をしてもいいの?

2020年10月2日金曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L

 自分がいかに伝道熱心かという話で、毎日マックで何も頼まないで客席に上がり、客に手当たり次第に聖書の話をし、店側にバレて出禁になり、仕方なく隣のケンタッキーで同じことを始めた、という話を武勇談のように定期的に語るプロテスタントの牧師さんがいた。けれどそれって伝道熱心なのか、営業妨害なのか?

 しかしこの方法で1人でも2人でもクリスチャンになり、教会に来るようになれば、「マック伝道を主が用いられた」とか「マックで語らなかったらこの人は救われなかった」とかいう美談になり、その行動の全てが正当化されてしまう。迷惑を被った客が多かったにもかかわらず(だから出禁になったのだ)。


 この考え方は下手すると、「社会常識に囚われていたら福音伝道などできない」みたいな極論にも繋がる。「人が救われるためなら何をしてもいいんだ」などと言い出す輩も現れかねない。彼らが住居不法侵入とか軟禁とかやらないと、誰が保障できるだろうか。最終的にオウム真理教と同じ轍を踏んだとしても、わたしは全然不思議に思わない。


 また極端な話を……と思われるかもしれない。けれどその手の教会は、本当にやりかねない。そういう現実を知らないのは幸運な教会生活と言えるかもしれない。

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