カミュの戯曲「誤解」の結末はこうだ。
夫を亡くし、途方に暮れるマリアが神に助けを乞う。
「神様、どうか助けて下さい」
すると近くにいた耳の悪い老人が「聞こえない」という意味で「否」と答える。
「どうか助けて下さい」
「否」
神に助けを求めたのに無碍に断られた、という皮肉な図で幕は下りる。
ここにカミュはどんなメッセージを込めたのか。
「何かにすがるのでなく、自ら戦わないと何も変わらないのだ」というメッセージではなかったか。
この戯曲が書かれたのは戦時下のパリ。カミュは結核に犯されながら、危険な反戦運動に身を投じていた。病気で死ぬか、捕まって処刑されるか、という死と隣り合わせの日々だった。その圧倒的絶望の中、彼が「神に祈っても無駄だ」という結論に達したとしても全く不思議ではない。
そういう態度を「不信仰だ」と断じたり、「いや祈りは聞かれる」と反論したりするのは簡単だろう。少なくとも現在の日本で、差し迫った危険に晒されていなければ。
当時のカミュが置かれた状況を想像することが大切だと思う。でなければ、彼の「神に祈っても無駄だ」という言葉の真意は理解できない。
言葉の裏側にあるものを理解しようとする姿勢も、キリスト者として大切だとわたしは思う。