「同性愛は罪です」
ツィッターでも時々この類の言葉を見かけます。それに「アーメン」というコメントが多数付くのもよくある光景です。
この話題で私がよく持ち出すのが、ハリウッド映画『キングスマン』です。劇中にアメリカ南部の教会が出てきます。教派はわかりませんが保守的(原理主義的?)なところで、牧師が説教中にこう叫びます。
「同性愛者どもを殺せ!」
それに多くの「アーメン」が続きます。たぶんデフォルメされているのでしょうけれど、きっとアメリカでもこういうのは珍しくないのだと思います。
このようにキリスト教のある教派は、同性愛について非常に「厳しい目」を持っています。
その是非はともかく、それが現状であるのは残念ながら間違いありません。
ただ昨今は(国や市区町村の)同性婚を認める動きの中で、同性パートナーシップや多様なジェンダーについての理解が徐々に広まりつつあるようです。それ自体は喜ばしいことです。そのためか上記の教派の人々にも「穏健な発言」が見られるようになりました。
ただ「穏健」と言っても、こんな感じですが。
「同性愛指向そのものは罪ではない。教会に受け入れるべきだ。しかし同性セックスは罪だから戒めなければならない」
なんだか奇妙な話じゃないでしょうか。その「指向」は罪でないけれど、それを「行動」に移すと罪になる、というのは。じゃあ結局その指向そのものが「罪」なのではないでしょうか。
ところで真面目な話、「同性愛は罪だ」というのは適切な表現ではありません。「罪か否か」の話でなく、「表現として適切でない」ということです。
まず「同性愛は……」と書いているところに性自認・性指向に関する知識不足があります。私だって十分な知識があるわけではありませんが、性自認・性指向は複雑かつ多様です。
私たちが一般的に(まったく勉強しなくても)認識しているのは、次の二つのケースです。
①生物学的に男性で、性自認も男性で、異性愛指向(つまり女性に性的魅力を感じる男性)。
②生物学的に女性で、性自認も女性で、異性愛指向(つまり男性に性的魅力を感じる女性)。
これらが「普通」で、「正常」で、「自然」だと思いがちです。
でも実際にはもっと多種多様です。
③生物学的に男性で、性自認も男性で、同性愛指向。
④生物学的に男性だけど、性自認は女性で、異性愛指向(見た目は同性愛)。
⑤生物学的に男性だけど、性自認は女性で、同性愛指向(見た目は異性愛)。
⑥生物学的に女性で、性自認も女性で、同性愛指向。
⑦生物学的に女性だけど、性自認は男性で、異性愛指向(見た目は同性愛)。
⑧生物学的に女性だけど、性自認は男性で、同性愛指向(見た目は異性愛)。
これでもまだ途中です。更に両性愛や無性愛なども加わり、より複雑になります(すみません、私もちゃんとは理解できていないかもしれません)。
だから「同性愛は罪」と言っても、「どの同性愛のことですか?」となります。上記の通り、見た目にわからない同性愛もあります。同性愛に見えるけれど異性愛、という場合もあります。生物学的には異性愛だけど、性自認としては同性愛、という場合もあります。その「有罪/無罪」の線引きは、いったいどこでするのでしょうか。またそれは誰が、どのように決めるのでしょうか。
というような事情を理解していれば、「同性愛は罪」などと簡単に言えません。「知識不足」とはそういうことです。
そしてもう一つ肝心なのは、「性のあり方のほとんどは、人生の中で変わったり、本人の意思で選んだりするものではない」ということです。「選ぶ」ものでなく、「気づく」ものです(人生の中のある時点で性指向が変わる、というケースも一部にあるそうです)。
ですから、性のあり方で意図的に「罪を犯す」「神に背く」ことなど不可能なのです。
あなたが異性愛者であるなら、このように考えてみて下さい。
「よし、今から神に背いて罪を犯してやろう。同性愛者になって、男性(女性)と恋愛関係になってやる」
それで同性愛者になれるでしょうか? なれないと思うのですが。なれる人がいたら教えて下さい。
同様に同性愛者も、自ら望んでそうなったのではありません。だから異性愛に変えることもできません。
身体的にも心理的にも男性で、同性愛指向を持って生まれた人は、少年時代に男友達に魅力を感じてしまい、戸惑うそうです。他の男子のように女子に魅力を感じず、「自分はおかしいのか」と葛藤してしまうのです。でもそれはあくまで「気づいたらそうだった」ということで、自らの意志や選択ではありません。
なのに大きくなって教会に行ったら、「同性愛は罪です!」と言われてしまうのです。そのような心境について、冒頭のように言う人たちは、考えたことがあるでしょうか。
「罪」とは何でしょう。私たちはどのように「罪を犯す」のでしょう。
それはほとんどの場合、「罪だとわかっていて、自ら選んで犯す」のではないでしょうか。
であるなら、自分が同性愛指向だと気づいた人は「選んだ」のではありませんから、「罪を犯した」とは言えません。繰り返しますが、「気づいたらそうだった」のです。あるいは「そうである自分自身を発見した」のです。
生まれつきのもの、自分ではどうにもできないものを否定される気持ちが、わかるでしょうか。
少なくともこの日本では、マジョリティとして生きる限り、「生まれつきのものを否定される」という経験はほとんどしません。「皆と同じ」である限り、何も言われません。だから余計に「生まれつきのものを否定される」気持ちがわからないのかもしれません。
私は生まれつき左利きで、吃音があります。左利きであることは小学5年の時に、吃音であることは中学1年に時にはっきり認識しました。それぞれ「左利きなんておかしい」「なんだその喋り方は」と否定されたからです。でも、自分ではどうにもならないのです。好きでそうしているのではありません。どちらも「気づいたらそうだった」のです。
でも周囲からは否定されたり、バカにされたり、これみよがしに真似されたりしました。なんとか自分で直そうとしました。長く葛藤しました。しかし無理でした。
性自認・性指向のマイノリティも同じだと思います。自分ではどうにもならない部分を否定され、「駄目だ」と言われ、「気持ち悪い」と言われ、教会に行けば「罪だ」と言われるのです。その気持ちがわかるでしょうか。少しでも想像できるでしょうか。
というわけで「同性愛は罪だ」という言説には、一つには知識不足があり、もう一つには人としての配慮の欠如があります。
「反知性主義」を掲げるのは結構ですが、「無知」はいけません。聖書以外の勉強も必要です。また「隣人愛」を掲げるのであれば、ご都合主義的に相手を選んではいけません。自分にとって愛しやすい人を愛するのは隣人愛ではありません。
最後に、ツイッターでフォローしているケン・フォーセットさん(@kenfawcjp)のツィートを紹介します。
(以下引用)
三年前にオーランドのゲイバーで銃撃事件があったとき「十字架のイエスはあのとき、ゲイバーの中で死にゆく人達と共に居た」という趣旨の投稿をフェイスブックでしたら、福音派から袋叩きにされて複数のグループから追い出された。福音派のほとんどは十字架のイエスを知らない、と確信した時だった。
(引用終わり)
私も同意です。ゲイバーで銃撃され、死にゆく人々の只中に、イエスもいたのです。共に血を流し、苦しみながら。
私はそう考えます。
さて皆さんは、どう考えるでしょうか。
(本記事はメルマガ第56号から抜粋・加筆したものです。)
アメリカのテレビドラマ「6フィートアンダー」アマゾンで見られますが、ゲイの主人公が恋人とゲイ公認のプロテスタント教会に通っていたが、父の後を次いでカトリックの助祭になるためゲイを隠している。次の神父にゲイに寛容な神父を推薦されたが、反対派が半数で認めると反対派が他の教会へ行ってしまうので、役員会では自身のゲイを隠してゲイ寛容派の神父就任に反対するというシーンがありました。
返信削除プロテスタント教会にはいろいろあって、賛成派、反対派がありますね。
カトリック、正教は基本的には反対ですね。
日本は、明治時代までは、恋愛に関してはゲイ、レスビアンに関しては公認していましたね。婚姻はさすがに認めていませんでしたが。
さて、私はというと、婚姻制度があり、社会規範があるということから、恋愛なら良いが、結婚はだめだというのが、私の考えですね。
いろいろな考え方があるのは良いと思いますが、それをもって当事者を傷つけたりイジメたりするのはダメですね。もちろんマイノリティ側にもいろいろな人がいますけれど。
削除同性愛は問題ないし、プロテスタントの教会で結婚も認めるべきという私は少数派でしょうか。。
返信削除まあ、公言したらフルボッコされそうですが。
そういった夫婦が子供を持つことについては長くなるので端折ります。
こういう記事を定期的に書く私もフルボッコにされそうな気がするのですが、不思議とそういう目に遭ったことが(今のところ)ありません。不思議ですね。
削除新約聖書で同性愛が否定されているところは、パウロが書いた手紙にしかありません。
返信削除パウロが非難する男色と現代の同性愛は違うという意見もあるかと思いますが、もしパウロが現代にタイムスリップしたとしたら、同性愛の結婚やジェンダーの多様性を認めようという時代の流れに対して、決してよい顔はしなかったでしょう。
ユダヤの伝統では同性愛は禁止でしたし、パウロの道徳観は一部、ストア哲学の影響を受けたものですから(パウロの生まれたタルソではストア哲学が盛んだった)、同性愛を自然の秩序に反すると考えていました。つまり、性とは子供をつくるという自然の秩序にのみ従うものであって、同性愛は「獣でもやらないような」無秩序な行為だというわけです。
ではイエスは同性愛についてどのように考えていたのでしょうか? 幸いに、と言うべきかどうかはわかりませんが、イエスの発言で同性愛についての直接的な言及はありません。私が思うに、イエスにとっては「神の子らか、この世の子らか?」という区別しかなかったように思います。もしかしたら、イエスも同性愛の性に否定的だったかもしれませんが、それに劣らず異性愛の性に対しても非常に厳格であったのは周知の事実です。
イエスの前では、この世の人間の営みで肯定できるものは何ひとつとしてなく、罪を悔い改めなくてよい人は一人もいない。「新しく生まれなければ神の国には入れない」とイエスは言いました。同性愛者に比べて異性愛者が神の前に義であるわけでも、天国に近いわけでもない。そこにあるのは、互いに裁く資格のない同じ罪人であって、ただ許しと憐れみがあるのみ。
パウロが偉大な使徒であることは変わりませんが、しかし、パウロは一人の人間であって神ではない。パウロはひとつの時代の限られた土地の間を生きた一人の人間にすぎません。それも、パウロの書いた手紙は、これまた限られた時代と場所の特殊な状況下にいた人々に宛てて書かれました。パウロは自分の書いた手紙が千年後、二千年後と「誤りなき神の言葉」としてイエスの福音と同列に読まれていることを知ったら驚いて腰を抜かすでしょう。「二千年後の羊の牧会まで責任もてないよ」と言うかもしれません。
実際、パウロ自身「私は良心に照らして何のやましいところもないけれど、だからといって神の前で義とされているわけではない。主が全てをあきらかにするまで、何ごとも先走りして裁いてはならない」と言いました。
パウロの手紙が神の言葉なのではなく、聖書が神の言葉なのではありません。パウロや聖書が指し示すその人、すなわち「イエス・キリスト」が神の言葉だ、というのがパウロの証言であり、聖書の証言でしょう。ならば、イエスをさしおいてパウロの言葉で人を裁くなら、パウロはどう思うでしょうか?
もし、パウロの手紙を誤りなき神の言葉としなければならないとしたら、女性は教会でヴェールを被らなければならず、女性は男性に意見を言ったり、教えたりすることが許されません。「女は子供を産むことによって救われる」なんて記述もあります。同性愛の否定をパウロの手紙に求めるなら、なぜこれらのことを教えないのでしょうか? それは、女性の地位が向上した現代において、こんなことを言ったら大ひんしゅくを受けるのは目にみえているからです。原理主義の教会においてすら、女性にこんなことは言えないし、女性たちも容認しません。結局、同性愛の否定は聖書からの恣意的な選別でしかないということです。
たしかにパウロの書簡はパウロ個人の言葉であり、神の言葉とするのは無理があると思います。時代背景によるものもあり、現代に通用するものばかりでなく、その意味でも「そのまま受け取る」こともできませんよね。
削除私たちが「互いに裁く資格のない罪人」というのもまさにその通りです。性的マイノリティの方々が特に罪深いとか、特別問題視されなければならないとか、そんなこともないと思います。
プロテスタントのクリスチャンです。
返信削除私の周りのクリスチャンの友人達(教職についている人が多いです)や師も圧倒的に「アーメン」派が多い中、私は心身共に男性である夫と結婚している異性愛者ですが、この問題に関して(アーメン派の人達が声高にSNSに書き込むことなどに対して)圧倒的な違和感、拒否反応、腹の底から湧いてくるような怒り、を感じて、けれども自分の立ち位置を表明できるほどの知識も度胸もないために目をそらすことしか出来ませんでしたが、この記事を読んで、自分でも驚きましたが涙が溢れ出てきました…。なんて愛に根差した視点なんだろう。愛ってこういう事だろう。
本当にこころが救われました。
ありがとうございます。
何度も何度も読ませて頂きます。
まるこさん
削除コメントありがとうございます。
私も「同性愛は罪だ」と堂々と言ってはばからない人たちには怒りを覚えます。しかし私がこういう文章をいくら書いても、そういう人たちの心にはきっと届かないのでしょう。それがまたもどかしいです。
ただまるこさんのような方の理解を助け、立ち位置を明確にするお手伝いができるならば、幸いです。どうぞ「愛」の視点をもって、世界を見ていただけたらなと思います。素敵なコメントありがとうございました。
同性愛を正当化するためのたくさんの言い訳の様に感じましたので、シンプルにコメントさせていただきます。
返信削除▶︎まず、神は男性を作り、そのつがいとして女性を作りました。そして言われました「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」(創世記9:1)同性同士でどの様にしてこのコマンドを実行するのでしょうか?
▶︎「愛」をしきりに強調していますが、「愛」を使って正当化するべきでは無いです。主は人々を愛しておられますが、間違った行いを見て深く悲しんでもおられる事には気にも止めないのでしょうか?これは「人間欲」でしかなく主よりも何よりも自分が大事だと言うことの現れでしかありません。
▶︎海外の教会では受け入れて居る所もあるとおっしゃる方も居るでしょう。私は現在アメリカに住んでいますので現状をお伝えします。
教会はどんな罪人でも公平に主を知る機会を与えています。「同性愛者であっても主の愛に触れ、いずれ自分の罪を認めるだろう。」と言う気持ちです。ここで間違ってはいけないのは、教会やキリスト教が同性愛を容認したわけでは無いと言うことです。主を知って罪を悔い改めるかどうかはその人自身の主との関わりですから、アメリカの個人主義社会では干渉しないと言うだけです。また、何かあれば差別!差別!と騒ぐので痛いものでしか無いです。
▶︎この昨今の同性愛関連のムーブメントが意図的に発生して居ることに気付かれてはいかがでしょうか?まるでトレンドの様に扱い、無垢な子供達までもがこのムーブメントの被害になって居る現状を真剣に捉えるべきですね。
こう言った社会現象を巧みに利用し、キリスト教の教えを都合の良い形へ変化させようとして居る点に目をむ受けるべきでは無いですか?
▶︎主との約束は、そんなもので簡単に変えられるものではありません。聖書に書かれていないからOKは聖書を軽視しています。強い信仰を持たれるべきだと思いますね。
コメントありがとうございます。
削除しかしながら「論点ずらし」はやめて下さい。
記事で主張しているいくつかのポイントに反論されるなら、真摯に対応させていただきます。
たしかに同性愛者も神の前では罪人でしょう。では、聖書に忠実なクリスチャンは罪はないのでしょうか?
削除「罪はない、と言うなら自分を欺いているのであって、神を偽り者としている」とヨハネ第一書簡に書いてあるのではありませんか?
同性愛者が主の前に自分の罪を気づくことを祈っているのでしょう?ならば、まず自分の罪とキリスト教会の罪を見つめてはいかがでしょうか?他人の罪について関心をよせていられるほど余裕があるのですか?
私たちにとって重要なのは、「聖書やキリスト教が同性愛者にどう接するか?」ではなく、「イエスが同性愛者にどう接するか?」なのです。イエスは人間の罪を認めないでしょう。しかし、イエスは罪人たちを受けいれて共に食事をし、生活をしたではありませんか。弟子たちの足を洗い、「互いの足を洗え」と言ったではありませんか。ならば私たちの足を同性愛者に洗ってもらってはいけないのでしょうか?同性愛者の足を洗ってはいけないのでしょうか?共に生活してはいけないのでしょうか?罪で汚れていることはお互いさまなのだから。
「神は男と女とに創造された」とあります。しかし「復活のときには娶らず、嫁がず、天の御使いのようになる」とあります。神の国は、この肉体と、この世界ではなく「新しい天と地と、新しい体」でしょう。神の国は、新しい人間と世界の創造であって、創世記の創造された世界を更新するものです。だから、結婚しなくても、子供をつくらなくても、神の国に入ることができるのです。創世記の創造目的も性別も関係ありません。男も女もなく、アガペーで愛することのみがあるのです。同性愛者でもアガペーで愛するなら神の国から追い出されておらず、異性愛者でもエロースでしか愛さないなら神の国から追い出されているのです。
最後に、同性愛者は教会、社会、子供たちに悪影響を及ぼすとおっしゃいますが、聖書もキリスト教も知らない人の世俗的な生活よりも、信仰に熱心なクリスチャンの方のゆき過ぎた正義感による監視や処罰のほうが教会や社会に大きな混乱をもたらし、無垢な子供たちの心と体に虐待をくわえていることを自覚なさったほうがよろしい。
聖書に忠実で信仰に熱心なクリスチャンが人々から尊敬されていると思われますか? まったく違う。逆に「神の名は、あなたがたのゆえに異邦人たちの中で汚されている」(ローマ書2・24)のです。
クリスチャンとしての見解を分かりやすくまとめてお伝えして論点ずらしと言われては何もコメント出来ませんね。
削除「反論できない」「反論がない」ということで理解しました。ありがとうございます。
削除たしかに同性愛者も神の前では罪人でしょう。では、聖書に忠実なクリスチャンは罪はないのでしょうか?
返信削除「罪はない、と言うなら自分を欺いているのであって、神を偽り者としている」とヨハネ第一書簡に書いてあるのではありませんか?
同性愛者が主の前に自分の罪を気づくことを祈っているのでしょう?ならば、まず自分の罪とキリスト教会の罪を見つめてはいかがでしょうか?他人の罪について関心をよせていられるほど余裕があるのですか?
私たちにとって重要なのは、「聖書やキリスト教が同性愛者にどう接するか?」ではなく、「イエスが同性愛者にどう接するか?」なのです。イエスは人間の罪を認めないでしょう。しかし、イエスは罪人たちを受けいれて共に食事をし、生活をしたではありませんか。弟子たちの足を洗い、「互いの足を洗え」と言ったではありませんか。ならば私たちの足を同性愛者に洗ってもらってはいけないのでしょうか?同性愛者の足を洗ってはいけないのでしょうか?共に生活してはいけないのでしょうか?罪で汚れていることはお互いさまなのだから。
「神は男と女とに創造された」とあります。しかし「復活のときには娶らず、嫁がず、天の御使いのようになる」とあります。神の国は、この肉体と、この世界ではなく「新しい天と地と、新しい体」でしょう。神の国は、新しい人間と新しい世界の創造であって、創世記の創造された世界を更新するものです。だから、結婚しなくても、子供をつくらなくても、神の国に入ることができるのです。創世記の創造目的も性別も関係ありません。男も女もなく、アガペーで愛することのみがあるのです。同性愛者でもアガペーで愛するなら神の国から追い出されておらず、異性愛者でもエロースでしか愛さないなら神の国から追い出されているのです。
最後に、同性愛者は教会、社会、子供たちに悪影響を及ぼすとおっしゃいますが、聖書もキリスト教も知らない人の世俗的な生活よりも、信仰に熱心なクリスチャンの方のゆき過ぎた正義感による監視や処罰のほうが教会や社会に大きな混乱をもたらし、無垢な子供たちの心と体に虐待をくわえていることを自覚なさったほうがよろしい。
聖書に忠実で信仰に熱心なクリスチャンが人々から尊敬されていると思われますか? まったく違う。逆に「神の名は、あなたがたのゆえに異邦人たちの中で汚されている」(ローマ書2・24)のです。
もし「同性愛は罪でしょうか?」と聞かれたら、私はこう答えます。
返信削除「神があなたをどうなさろうとしているかは私にはわからないし、誰にもわかりません。ただ、あなたはあなたの愛する人を自分自身のように大切にしてください」と。
そして、これは聖書のメッセージに照らしても決して間違っていないと思います。
どうせクリスチャンが「罪だ!悔い改めろ!」とわめき散らしたところで人は変わらないのだから。
人を変えることのできるのはイエスのみ。イエスは同性に対しても、異性に対しても、イエスが人を愛するが如く愛するように変えてくださるでしょう。私たち罪人の間にあるべきものは受容と憐れみのみ。肉体の病人にはやさしくするのに、霊的な病人をぞんざいに扱うことはあってはならない。イエスは霊的な病人を肉体の病人をあつかうようにやさしかったでしょう。
人の罪を浄めるのは神のイエスにおける力であって、クリスチャンの力ではない。「私たちが何とかしなければ!」という義憤は、神の力よりも自分たちの力を信頼する「不信仰」ではないでしょうか?
同性同士の結婚が単なるひとつの流行ではないことを示すために、一夫多妻と比較してみましょう。
返信削除アメリカで同性同士の結婚が認められたとき、当然といえば当然ですが、「同性婚が認められるなら、一夫多妻も認められるべきだ!」と言う人々があらわれました。しかし、この要求はしりぞけられました。
では、なぜ同性婚はよくて、一夫多妻はだめなのでしょうか?
ここには「結婚」という美徳に求められる規範の変化があるのです。
もし、「子供を産み育てる」ということが結婚の規範ならば、結婚は男と女の間でしかあり得ません。しかし、子供を産んでおきながら、デタラメな家族があるということは、昨今の悲劇的なニュースによって私たちは痛いほどよく知っております。
そこで、結婚に求められる美徳は、子供を産み育てることではなく、パートナーシップに求められることになりました。つまり、異性同士であれ、同性同士であれ、手がないときは相手の手となり、目がないときは相手の目となるような意味で、「もはや二人ではなく、ひとつの体」(マタイ19・6)であるような関係にこそ「結婚」という美徳はふさわしい、と。
子供は、産んだ夫婦の所有物ではなく、互いを自分自身の体を気遣うように気遣い、愛しあえる人と人の間で「ひとつの体」の一部として大切にされ、育まれるべきであると。一人の人格として大切にされるなら、育てる人間は異性同士のカップルであろうが同性同士のカップルであろうが関係ありません。
イエスは「私の家族は肉親ではなく、神の意志を行う者たちだ」と言いました。私たちは、私たちが知っているような家族に「愛」があるなんてことを、無条件に信じることはできません。人間という言葉は、人と人の間と書きます。当たり前ですが、大切にされるべき命は、大切にしてくれる人と人の間にあるべきなのです。
結婚の美徳が以上のようなものである以上、一夫多妻にこのような美徳が可能かどうかは議論されなければなりません。
イスラムでは一夫多妻が認められております。古代から中東では一夫多妻は一般的なことでした。「アッラーは慈悲深いから、人に無理なことを要求なさらない」と、当時の文化や風習を一部是認しました。しかし、預言者ムハンマドには9人の妻がいましたが、ムスリムには妻は4人までで、それもできるかぎり公平に接するように求めました。複数の伴侶を「オンリーワン?」な存在として愛するということは、かなりアクロバティックな試みのでしょう。現在ではムスリムの間でも妻は二人くらいに留めておくことが多いようです。
ちなみに、キリスト教の歴史において一夫多妻を「神の意志」として主張したのは聖書無謬を支持する原理主義グループでした。なぜなら、アブラハム、モーセ、ダビデなどの旧約聖書の主要人物はみな多妻だったからです。聖書の全ての文字を等しく「誤りなき神の言葉」とするなら、「アブラハムやダビデのようにたくさんの妻をもって何が悪い!」となるからです。
モルモン教が当初一夫多妻主義でしたね。それ故に、ユタ州へ逃げていき共同体をつくって今日にいたっていますね。コナンドイルのシャーロックホームズ第1作が「緋色の研究」モルモン教による犯罪的行為が描かれていますね。
返信削除さすがに今日では一夫多妻主義は教義から外しましたが。精神的にはまだあるようですね。さすがに同性婚主義は未だにキリスト教では生まれていませんね。
ユタ州がアメリカから独立し、モルモン教が国教化されることがあれば、一夫多妻がOKとなるかもしれませんね。
結局のところ、なぜキリスト教ではこんなに同性愛の問題がこじれるでしょうか?
返信削除ユダヤ教もイスラムも同性愛を禁じておりますが、大きな論争になっているのをあまり聞きません。ユダヤ教やイスラムでは書かれていることが全てで議論の余地がないのかもしれません。
かたやキリスト教でこんなにも論争になるのは、やはりイエスの存在があると思います。
非常に英明な現ローマ教皇はトランプ大統領の政策を批判して「キリスト教は壁をたてるのではなく、橋をかける」と言いました。
同性愛者を含むキリスト教徒のマイノリティたちは、自身のマイノリティ性にたいして、イエスによって「橋」がかけられていることを知っているのです。だから、聖書や教会によって否定され、全クリスチャンが排除し、壁を築こうとも、恐れず自身のマイノリティ性を告白します。同性愛者を擁護するクリスチャンも、イエスの十字架によってかけられたこの橋を守るため、他の全クリスチャンを敵にまわすことも恐れません。
私たちには、罪びとに「石を投げるイエス」というのが想像できません。姦淫の女に石を投げなかったイエスは「もう罪を犯してはいけない」と女に言った、と人は言うでしょう。しかし、仮に女が再び罪を犯したとしても「七の七十倍まで許せ」と言ったイエスは「十字架の死に至るまで」石を投げることはしなかったでしょう。
しかし「最後の審判では、イエスは同性愛者どもに石を投げつけるために来られるだろう」と一部のクリスチャンは言うでしょう。しかり、最後の審判ではイエスは許すためではなく、分けるため、命と滅びとの間に壁を築くために来られる。
では、同性愛者を糾弾する自分たちは神の国の壁の外に追い出されないと、なぜ言えるのか?ノーマルな性とノーマルな家族をもっているだけで入れるほど神の国の入り口は広くありません。「狭き門より入れ、事実、入れる者は少ないのだから」とイエスは言いました。クリスチャンは、他者の罪やマイノリティ性よりも、それを指差す自分の手が汚れていないかどうかを確認すべきなのです。
イエスは「最も小さい者にしたことが、私にしたことだ」と言いました。その日、あるクリスチャンが同性愛者を悔い改めさせ、ノーマルな性と家族を持たせたことを誇ってこう言うでしょう「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と。「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」マタイ7・22‐23