最近ツィッターのクリスチャン界隈(の私が目にする範囲)で話題になったのが、「婚前交渉の可否」です。
おそらく多くの教派や教会が「婚前交渉は罪」と言うと思います。中には強烈に禁止するところや、「ダメで当たり前でしょ!(議論の余地なし!)」と激しく主張するところもあるかと思います。
一方で「個人の(性)生活に教会が(他人が)干渉すべきでない」とする考え方もあります。真逆の立場ですね。
同じキリスト教を信じていて、こうも違う見解を示すのが現状です。
そんなに違うなら、違う宗教にしたらいいのにって思いませんか。たとえば「キリスト教α」とか「キリスト教β」とか、「パウロ系キリスト教」とか「ヘブル系キリスト教」とか。あ、冗談です(笑)。
ところでこの問題の根本にあるのは、それぞれの「解釈の違い」です。
よく「聖書にこう書いてある」という言葉を目にしませんか。
たとえばこれ。
「神は愛だ、と聖書に書いてある」
たしかにそう書いてあります。たぶん反論はないでしょう。
ではこれはどうでしょう。
「聖書は飲酒を禁止している」
たぶん議論が噴出します。
「キリストは大酒飲みだったと書いてあるじゃないか」
「いや当時のワインはアルコール度数がですね…」
「パウロも飲酒を勧めているじゃないか」
「それは原語の意味としてはですね…」
みたいな感じで。
なんだかコントみたいですが、やってる方は本気です。
こんなふうに、「聖書にこう書いてある」というのは、実は「聖書にこう書いてある、と自分は考えている」とか、「聖書がこう言っている、と教会から教えられている」みたいなことだったりします。話が噛み合わないのは、そうした「違い」が土台にあるからです。そもそも聖書の解釈が一つならば、議論にならないはずですよね。
もう一つは、「マジョリティ解釈とマイノリティ解釈の差」です。
たとえばAとBで正反対の聖書解釈があるとします。ある人たちはこう言います。
「聖書はAって言ってるよ(と自分は解釈しているよ)」
またある人たちはこう言います。
「いや、聖書はBって言ってるよ(と自分は解釈しているよ)」
この場合、Aを支持する人が多いと、Aが「マジョリティ解釈」になります。支持者が少ないBは「マイノリティ解釈」です。
この状況でBを主張すると、沢山のA支持者から「何言ってんの?」「本当にクリスチャンなの?」「聖書読んでないでしょ?」などと袋叩きにあう可能性が高いです。Aの方が「声が大きい」からですね。
つまり「マジョリティ解釈」が、いつのまにか(マジョリティの中で)「聖書の真理」になってしまうのです。もともと一つの解釈に過ぎないはずなのですが。
というわけでこういう問題について考える時、「解釈の違い」と「声の大きさ」を考慮に入れる必要があります。「可能性」を「真理」としてしまっていないか。少数派を「声の大きさ」で押し切ってしまっていないか。多勢なのをいいことに袋叩きにしていないか。などなど。
☆ ☆ ☆
さて婚前交渉の話ですが、「婚前交渉は罪」という考え方(解釈)は、どこから来るのでしょう。聖書でしょうか。それとも教会の文化や伝統からでしょうか。このあたりは揉めそうなので(ここでは)やめておきます(笑)。
でも真面目な話、聖書がどう言っているか(言っていないか)の議論もさることながら、より優先されるのは「実際的にどんな問題があるのか」だと私は思います。私たちはリアルに生きている人間なのですから。
たとえばですが、「婚前交渉は罪」だと仮定しましょう。いいですか、「仮定」ですよ。
聞いた話ですが、ある女の子が親から恒常的に暴力を振るわれていました。自分で児相に駆け込んだり、警察に相談したりしたほどです。でも(子供なので)相手にしてもらえず、状況の変化はありませんでした。日々命の危険を感じながら、彼女はなんとか生き続けました。しかし高校に上がったある日、ついに耐えられなくなって、身一つで家出しました。もちろんお金も、泊まるところもありません。彼女は生きるために、やむを得ず援助交際を始めました。たいへん悲しい、理不尽なことです。
さて彼女は婚前交渉という罪を犯してしまったわけですが、それは本当に、彼女個人が犯した罪なのでしょうか。高校生の子供が、後先考えずに無謀に犯してしまった「悪いこと」なのでしょうか。
彼女をそこまで追い込んだ親や、助けてくれなかった児相や警察に罪はないのでしょうか。
あるいは家出したての彼女に援助交際を勧めた人物や、実際に彼女を「援助」した人物に罪はないのでしょうか。
あるいはもっと広義に言えば、そのような状況や風潮を作ってしまった社会全体に罪はないのでしょうか。
または「隣人愛」やら「救済」やらを標榜するのであれば、そういう悲しい事態を救済できずにいるキリスト教会全体にも罪があると言えるのではないでしょうか。なぜ自分たちだけは「きよい」「罪を遠ざけている」と言えるのでしょうか。
私が言う「実際的な問題」とは、そういうことです。
そこまで酷い例でなくても、「不本意ながら婚前交渉に至ってしまった」というケースも少なくありません。相手から強く求められて仕方なく、という場合、どこまでが本人の罪と言えるのでしょうか。
たとえば「婚前交渉はしない」と約束してくれたから信用して相手の家に行ったら、結果的に求められて拒みきれなかった、という話を時々聞きます。その場合「行為」だけで罪と認定されるのでしょうか。「理由」や「事情」は一切考慮されずに?
「結果的にお前も楽しんだのだろう」なんて言う人もいますが、それこそ「セカンド・レイプ」という「罪」だと思います。おそらく本人が一番傷ついて、かつ自分を責めているのに、トドメを刺してしまうのですから。弱い者イジメと同じです。
そういうことを考えますと、「婚前交渉は罪か否か」というのは机上の空論でしかない気がします。もうちょっと現実的な問題に目を留めるべきではないでしょうか。
世の中にはいろいろな境遇の人がいます。それぞれに様々な事情を抱えています。どうにもならない状況の中で必死に生きている人もいます。そういうのを全部一括りにして「これは罪」「あれは罪」と教会の中で声を張り上げるのがキリスト教だとしたら、そんなものは要らないのではないかな、と私は僭越ながら思う次第です。
これはあくまで私個人の意見です。読んで下さった方が、それぞれ考える材料にしてくれたら幸いです。
きっと私が配慮できていない点もあると思います。そこは本当にごめんなさいです。
いつも楽しく拝読しています。6年目のひよっこローマ・カトリック信徒です。私も前々からこの問題について関心がありまして世間の考え方や書籍をたくさん読みました。中でも、カトリックなってしまうのですが遠藤周作さんの『人生の踏み絵』『私のイエス』という書籍にそういった問題に関して詳しく書かれている章があり、考えるのによろしければ参考になるかもしれません。
返信削除個人的に調べてみたのですが、日本は遡れば平安時代は男女の逢瀬や関係に比較的に寛容だったのが、時代が進んで、儒教やキリスト教の考え・価値観が次第に日本に入り、そういった経緯で考えられた価値観が明治時代に出来上がり、それがいまだに根強いという影響もあるようです。
いずれにせよ、事例を読んで思ったのですが。。。高見に立って人を裁く行為は端から見ても、美しくないと思いました(泣)
他人様のプライバシーに首を突っ込まない・触れない礼儀を持つ・そっとしておく“優しさ”も“思いやり”も、私はイエス様の説く“愛”だと信じています。
考えさせられる記事をありがとうございました。
感謝を込めて祈りのうちに。
ありがとうございます。本の紹介もありがとうございます。遠藤周作さんは作品の中で、キリスト教の本質を突くような問いかけを数多くなされており、私も尊敬しています。ぜひ読ませていただきます!
削除婚前交渉、昔は不純異性行為などとも言っておりました。宗教と文化と法律は結びついていますね。昔も今も。宗教と道徳とも結びついていますね。
返信削除日本のキリスト教文化と言っても、きわめて少数派ですし、カトリックとプロテスタントの別れているし、プロテスタントはさらに細分化してますし、影響力はほとんどないといって良いのでは。
カルバン系の宗派の改革派教会のカテキズムなどをみると、同じ宗派でないと婚姻を禁じるみたいなことを書いてあるし、婚前交渉御法度みたいなことも書いてるので、どうかなあと思いますね。
過度なピューリタニズムはどうかなあと思いますね。
恋愛は個人の問題ですので、個人の宗教観、倫理観、道徳観の問題だと思いますね。
まさしく、過度なピューリタニズムだと思います。聖書のオーダーでなく。
削除・・・要はアレか
返信削除どっちが(御言葉・それも母国語に意訳された、本来の意味は永遠にわかるはずもない文字列)解釈おもろいかで争ってんのか
ほんで殺し合いまでしちゃう
やっぱりクリスチャンという人種からは距離を置かざるを得ない・・・チーン
何やってんじゃ、と言いたくなるような現状もありますね。もちろん全てのクリスチャンがそうなのではありませんが。
削除「解釈の違い」についての内容、すっごく納得する。ワタシがもう何年も聖書を読まなくなった理由はこれ。読んでると、今までに聞いた様々な解釈や意見が頭に浮かんできて混乱するし、結局疲れる。神様何が言いたいの??
返信削除婚前交渉はウチの教会は厳しかったなぁ。「情欲をもって異性を見るだけで姦淫の罪になります」と言って、プラトニックな恋愛もキケンに片足つっこむような扱いだったな。それで結婚は奨励してるんだから、心の持ちようがよく分からん。
教会の言うことって、基本的に日和見の御都合主義ですよね。聖書も都合よく読んでいます。本当に聖書に従うなら右手を切り落としたり、目玉をくり抜いたりしないといけないですから 笑
削除「情欲をもって異性を見るだけで姦淫の罪になります」の言葉は某団体にいたときに何度言われたことでしょうか・・・それしか言うことないんか?って感じでした・・・。
削除教会で結婚前に妊娠したカップルがいて、婚前交渉をしてしまったと壇上で謝罪させられていたのを実際に見たことあります。とんでもないパワハラだと感じます。
やはり婚前交渉発覚したら皆の前で謝罪、という教会があるのですね。吊るし上げの公開処刑で、甚だしい人権侵害だと今は思います。
削除教会の婚前交渉の禁止については、以前クリスチャンの方と議論(喧嘩)したことがあります。
返信削除その方は、「クリスチャンの婚前交渉はもちろん禁止。聖書も禁止しているし、イエス様も禁止している。教会は罪を犯した人を悔い改めさせるべき」と言いました。
たしかにイエスは「欲するために女を見ることは姦淫」「離婚は姦淫」と言いました。しかし、イエスは「あなたの財産を貧しい人に与えよ」とも言いました。
しかし、クリスチャンのほとんどは自分の財産の半分どころか、3分の1も貧しい人に与えることはしません。「自分たちができなさそうなことは「神様の許しと愛」を盾に免罪しておいて、自分が当事者でない罪については容赦なく人を断罪するのか!」と怒りました。
5人の愛人がいたサマリヤの女の傍らに座って語りかけ、彼女の友となったイエスは何だったのか?イエスが「友」として受け入れた人をクリスチャンは「汚れた罪人」として追い出すのか? 「人に負いきれぬ重荷を背負わせておきながら自分は指一本触れない偽善者」とは誰に向けられた言葉なのか?
クリスチャンもノンクリスチャンも関係なく、「自分の目の中の丸太には甘く、他者の目の中にある塵には厳しい」というパリサイ的な傾向は逃れられません。
一般的に教会では結婚が神聖視されてきました。しかし、聖書においては必ずしもそうではありません。イエスは「人、復活のときには、もはや娶らず嫁がず、天使のようになる」と言いました。ルカ福音書においては「復活にふさわしい人、もはや娶らず嫁がず、天使のようになる」と、まるでこの世の生の段階において神の国にふさわしい人は結婚しないかのように書かれております。パウロが結婚するよりも独身のほうがよいなんて言いだすゆえんです。
聖書は結婚を神聖視などしません。結婚それ自体はこの世の制度であって、たとえノーマルな家庭であっても、罪の果実だということもありえる。結婚してノーマルな家庭をもっているからといって、神が前で何か正しいわけではありません。
「神が合わせたものを、人が分けてはならない」とイエスは離婚を戒めました。神が合わせた間柄ならば、キリスト教式の結婚式で宣誓するように、「病めるときも、健やかなるときも、死が二人を分かつまで」どんな力も二人を引き離すことはできません。
しかし、神が合わせた間柄ではなく、「肉の欲、目の欲、所有物の誇り(ヨハネ第1書簡2・16)」で繋がりあう間柄はどうでしょうか?どんなにイエスが離婚を禁じようとも、イエスを十字架にはりつけてでも、必要がなくなればお互いを捨ててゆくでしょう。結局、その結婚は人間の罪の果実だったのであって、神の合わせたものではなかった、ということでしょう。
聖書で重要な対立項は、「あなたは、天使のようにアガペーで人を愛するのか? それとも、エロースで自分のために人を愛するのか?」という対立であって、ノーマルな家庭の中にもエロースはあるし、アブノーマルな人間関係の中にもアガペーはあります。ここには同性愛も異性愛も関係ありません。
イエスは、髭モジャの男の弟子たちに「互いに愛しあえ」と言いました。これは同性愛ではないのでしょうか? しかり、同性愛でした。しかし、欲のために互いを利用するエロースではなく、愛する人のために愛するアガペーにおける同性愛でした。ここにあるのは異性愛VS同性愛の対立ではなく、異性同士であれ、同性同士であれ、アガペーで愛するかエロースで愛するかの対立だけなのです。異性愛の結婚も、同性愛の結婚も、それ自体で正しかったり間違っていたりするのではなく、その関係がアガペーによるものかエロースによるものかの違いだけなのです。
聖職者がどんなに厳しく性を監視しようとも、人の目を盗んで、くっついたり離れたりするものです。誰にも(本人にさえも)コントロールできません。そんなことは無駄なことです。しかし、神の裁きも普遍的(カトリコス)ならば、神の恵みも普遍的(カトリコス)。「罪の溢れるところには、神の恵みもまた満ち溢れた」とあるように、エロースで繋がりあうだけの人間関係には人は決して満足しません。
昔、「ナンバーワンよりもオンリーワン」を口ずさむ歌が流行りました。ナンバーワンによる評価ならば、2位3位と転落する可能性がある。「別に君じゃなくてもいい。代わりは他にいる」と言われうる。ナンバーワンは、欲望や利用価値
、すなわちエロースによる評価です。
しかし、オンリーワンは、アガペーによる視線です。「君がどんな存在だとしても、僕にとって君は君しかいない。君は誰にも取り換えることのできない唯一の存在だ」という視線です。
結局、人間というのは、エロースに引きずられながらも、エロースを抜け出したいと思う存在。「ナンバーワンのような取り換え可能な存在ではなく、オンリーワンな存在として大切に接してほしいし、人にもできるかぎりそのように接したい」という根源的な欲求を持っている存在なのではないでしょうか?
古代人が欲望の世界を「闇」として、アガペーの世界を「光」として描いたことは意味のあることです。闇の中を迷うように、エロースに引きずられながらも、光りを求めるようにアガペーに憧れる。それが人間なのでしょう。
5人の愛人をもってしても満たされないサマリヤの女が普遍的(カトリコス)ならば、彼女の隣りに座って語りかけるイエスもまた、普遍的(カトリコス)なのです。
ありがとうございます。たいへん感銘を受ける文章です。井戸を囲んだサマリヤの女とイエス・キリストの構図が特に鮮明で、目に浮かんできました。
削除いつも思うのですが、OSHIMAさんはブログなどで文章を書かれていますでしょうか。ぜひ読ませていただきたいです。
何が罪か?ということは学生のころすごく悩みました。今思うのは、個々の行為を個別の状況から切り離して取り出し、一般的に罪か罪でないか?を問うことはできないのではないかということです。
返信削除キリスト教から離れて考えた場合でも、正当防衛で人が死んだ場合と、業務上の過失で人が死んだ場合と、金を奪のに邪魔だからと人が死んだ場合は、全く別に扱うような丁寧な区別がなされるのに、それでも不十分だから裁判で個別的具体的に判断をするのに、この世よりより高い水準で「罪」を考えるべきキリスト教が単純にこの行為は罪、この行為は罪でない、と個別の状況を無視して決めるのは乱暴な事だと思います。
たしかに一般の裁判でも量刑があるのですから、一口に罪と言っても、考えるべき点はたくさんあるはずですよね。なのに教会が「婚前交渉は罪」「同性愛は罪」と単純化して語っていては、まったく模範にならないと思います。現実を見ていないのではないでしょうか。
削除カトリックや正教は婚姻を秘跡ととしています。プロテスタントは秘跡としていません。秘跡とは何か、いろいろな説明がありますが、私なりに言うと、神の約束ですね。
返信削除結婚は、神の約束ですから離婚は認められないというわけです。
イタリアン的(カトリック的)と言うことならば、浮気をしたら懺悔して、なぜなら浮気は罪であるから、許しを請う。浮気をしても離婚はしてはいけないというわけですね。
罰として、嫁様から張り倒されるか、高価な贈り物をするなどしてチャラにしてもらうというわけですね。
しからば、婚前交渉はイタリアン的、ラテン的に考えて、カトリック的に考えて、結婚前提ならいいんじゃないというわけですね。
結婚にいたらなければ、それは神の思し召しである、しようがないじゃない、というわけですね。
プロテスタントは、結婚は秘跡ではないので、離婚も自由と言うことになるので、ましてや婚前交渉もさらに自由だと考えれば良いのではないでしょうか。
たしかに結婚を秘跡としないプロテスタントは、結婚に関する教理が曖昧ですよね。それぞれの教派や教会次第と言いますか。それがまたプロテスタント内の混乱を助長していると思います。これからも不毛な論争が続きそうです・・・。
削除一既婚女性からの意見です(代表ではありません)
返信削除婚前交渉は女性のほうが圧倒的にリスクもデメリットも多いのは間違いないと思います。
肉体的には主に性病は不妊の原因になりうる、妊娠中に発覚したら負担のかかる治療と並行になり、選択肢なく帝王切開になる、など。
最初の検査で知る女性が多いのもなんとも辛いと思います。
子宮頸がんも、女性が予防接種を受ける、受けないばかりで男性側は野放しです。
一方、精神面では、ノンクリスチャンの女性でもびっくりするほど過去の男性経験に傷ついている方が多いです。
一見男女の関係を謳歌しているような女性でも、話の中で私がクリスチャンと知り、少し性の話になったりすると過去の辛い経験を話し出す方が意外なほどいるのです。
さほど親しくない女性でもです。
(もちろん本当に何の悔いもなく、望まぬ妊娠も病気も無縁で楽しんでいる方もいると思います)
率直に聞きますが、
妻が過去に中絶経験があると知って離婚を考える夫と
夫が過去に中絶させた経験があると知って離婚を考える妻
どちらが多いと思いますか?
(金銭面や子供のことなどで違いが出るのは百も承知です)
とすると、婚前交渉禁止というのは、古来より女性を守るためのものではなかったのでしょうか?
なのに「やむにやまれず」「不本意で」を責めるのは本末転倒も良いところです。
婚前交渉は個人のこと、というのはその通りですが、私にとっては
「若く美しく、十分痩せていて魅力的なのに、更に痩せたいとダイエットに励み、摂食障害になっている」のを見て止めたくなるのと同じです(分かりにくくてすみません)。
また、勝手ながら結婚してからの夫婦生活において傷つく女性もいるなどの反論は控えて頂ければ幸いです。あくまで婚前交渉についての意見ですので。
ありがとうございます。
削除おっしゃる通り、婚前交渉は女性側に圧倒的なリスクがあります。安易にすべきものでありません。
私が本記事で言いたかったのは「婚前交渉を安易に断罪すべきでない」ということですが、かといって安易に勧めるべきでないのも事実です。
すみません、分かりづらかったですね。
削除私の主訴は「弱者(この場合は主に女性)を守るための規則(?)が、却って弱者を責める道具になっているのはおかしい」ということでした。
傷ついた女性を「自己責任」と責める人になるか、「辛かったね」と寄り添う人になるか。
イエス様がどうしたかを見れば、クリスチャンがどちらの行動をとるかは分かりきったものです。