教会はなぜ新来者を迎えるのが下手なんですか?

2019年2月18日月曜日

教会生活あれこれ

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 興味があって、今までいろいろな教会を見てきました。呼ばれたわけでもなく、知り合いがいるわけでもなく、まったくの「一見さん」としてです。

 私は信仰歴はそこそこ長いのですが、どの教会に行っても「新来者」です。その意味で「教会がどのように新来者を迎えるか」をリアルに見てきたと言えます。そしてこの煽るようなタイトルの通り、「教会って新来者を迎えるの下手だな」と正直に思っています(すみません)。

 教会の新来者の迎え方は次の二つに二極化しています。

歓迎しすぎ
放置しすぎ

 極端すぎませんか(笑)。
 中間のちょうどいいところはなかなありません。なぜでしょう。

「①歓迎しすぎ」の問題点はいきなりプライバシーに突っ込んでくるところです。初対面なのに第一声か第二声が「お名前なんですか」じゃ、あんまりでは。もうちょっと気楽な話をさせて下さいよ。名前とか、もうちょっと仲良くなってからでいいのでは。

 ちなみにカルトなところは「ラブシャワー」という名の「誉め殺し」「愛し殺し」をしますから、気をつけましょうね。

「②放置しすぎ」は文字通りです。終始誰からも声を掛けられず、それはそれで気楽なのですが、「あれ、自分の姿見えてる?」と思うこともしばしば。
 こちらから話しかけなければ、何も始まりません。「そんなの当たり前」と思われるかもしれませんが、私のような経験者ならともかく、教会について知らない、ただキリスト教に興味があるというだけで緊張しながら来た人にはハードルが高いです。そのあたりを、思いやってもいいのではないでしょうか。

 私も最近、知らない教会に行くのがちょっと億劫です。上記のどちらかなのが目に見えているからです。

 なぜこんなに下手なんでしょう。その理由はたぶんこれではないでしょうか。
新来者がほとんど来ないから

 新来者を迎える経験値が圧倒的に足りないのです。いつも同じメンバーで礼拝していますから、たまに新来者が来ると「何か来たぞ!」と身構えてしまうのでは。HPに「どなたも歓迎です」と書いておきながら、実際に来たらどうしたらいいかわからないのです。
 仕方がないと言えば、そうなのですが。

 現在上映中の「マスカレード・ホテル」という映画があります。東野圭吾原作、キムタク主演なのでご存知の方も多いでしょう。私は原作を読みましたが、一つ印象に残った言葉がこれです。
「(ホテルマンにとって)お客様がルールブックです

 一流のホテルマンはお客の「快適さ」を何より優先し、そのために仕える、というわけです。「客の言いなりになるってこと?」とはじめはちょっと理不尽に感じましたが、読んでいるうちに「そういうことか」と納得しました(詳しくは読んでみて下さい 笑)。

 もちろん教会とホテルは違います。新来者はお客様ではありません。でも「来てくれた人が快適に過ごせるように最大限配慮する」という姿勢には、見習うべきものがあると思います。

「教会は新来者に仕える場所ではない。神に仕える場所だ」という意見もあるかと思います。でも「神に仕える」って、要は「人に仕える」ってことだと思うんですけどね。

 それでも「新来者のことなんて気にしていられない」と言う教会は、「◯◯」教会という看板を下ろして、HPも削除して、内輪だけで集まったらいいと思います。内輪だけなら看板もHPも要りませんから。

 もし私が新しく教会を始めるとしたら、「何人くらい集まりそうか」「どれくらいの規模になりそうか」はとても気にします。そして広報や歓迎の仕方を一生懸命考えるでしょう。特に初期の頃は「来てくれた人」が大変重要だからです(どの教会もはじめはそうだったはずですが)。

 名前は出しませんが、とても居心地の良かった教会があります。新来として行ったのですが、受付の方が要所要所で私のそばに来てくれて、簡単な説明などしてくれました。歌っているページがわかっているか、献金のことで戸惑っていないか、など、たぶん遠目に見ていてくれたのです。だから必要な時に、すっと来てくれたのではないでしょうか。「見えない配慮」を感じましたし、「また来たい」と思いました。

 ちなみに礼拝後、その受付の方からあれこれ聞かれることもありませんでした。笑顔で挨拶して帰りました。教会側は「連絡先くらい教えてもらわないと次に繋げられない」などと思うかもしれませんが、その発想自体が「教会主体」です。新来者の立場で考えてみましょう。どうしたら、新来者はまた来てくれるのでしょうか。

 ちょっと厳しいことを書いてしまいましたが、「教会の現状を変えたい」ということであれば、こういうことから考えるべきでないかな、と私は思います。何かの参考になれば幸いです。

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