ちょっと自殺について考えてみましょう。
物々しいテーマですみません。ガチなクリスチャンの皆さんを怒らせてしまう内容かもしれませんので、そのことも先の謝っておきます(笑)。
キリスト教界的にも、一般論的にも、「自殺はダメ」というのが概ね共通した認識だと思います。反対意見はきっと少ないでしょう。おそらく現在、どこの国に行っても、どの地域に行っても、自殺を推奨するところはないと思います(あったらごめんなさい)。
でも「自殺はダメ(罪)」というのは、必ずしも普遍的なものではありません。たとえば日本には長く「切腹」という制度がありました。
およそ平安時代から明治時代まで、武士社会においては、切腹自殺は「美徳」みたいなものでした。何かの不始末の責任を取るため、あるいは武士としての名誉を守るため、自ら腹を切って死ぬのが「潔い」とされていたのです。
たとえば「忠臣蔵」の赤穂浪士たち。「白虎隊」の若者たち。他にも多くの有名無名な武将たちが、切腹によって自らの命を絶ってきました。
あるいは太平洋戦争中は「特攻」という自殺が推奨されましたし、戦艦大和は片道分の燃料だけ積んで出撃しました。敗戦が迫る頃は、敵の捕虜になるより自害を選んだ(選ばされた)兵士たちも多くいたと聞いています。
つまり今は「自殺はダメだ」と言っていても、時代が変われば「自殺しろ」と言うこともあるわけです。今後またそういう時代が来ないことを願うばかりですが。
ではこの切腹は、あるいは「自殺を命じられる」ということは、いわゆる「自殺」なのでしょうか。
上記の「本能寺の変」の首謀者はご存知、明智光秀ですが、その三女は細川ガラシャ夫人です。彼女も最終的に自害する羽目になるのですが、敬虔なカトリック信者だったガラシャ夫人は、自殺するわけにいきません。だから家臣に、槍で突くよう命じたそうです(諸説あります)。
でもそれが本当だとしたら、家臣に「殺人の罪」を犯させたわけですよね。それはそれでカトリック信者としてどうなのって思いますが。
また下手人が家臣だったというだけで、結局これは自殺と同じなのではないのかな、とも思います。自ら死のうとしたのですから。
あるいは「自害せざるを得ない状況に置かれた」のだから、結局は「殺された」のかもしれません。
そう考えると、何が自殺で何が自殺でないのか、よくわからなくなってきます。
そもそもの話、切腹自体が本当に「自殺」なのでしょうか。死刑の一方法として「自分で腹を切れ」と命じられただけで、結局は死刑だったのではないでしょうか。切腹せざるを得ない状況だったのですから。
となると、「切腹=自殺」と単純に考えられないわけです。
イエス・キリストの場合を考えてみましょう。
イエスは全人類の罪を背負って十字架刑に処せられるのを、あらかじめ理解し受け入れていた、というのが一般的な聖書理解です(ですよね?)。つまり彼は、死ぬとわかっていて敢えてローマ兵に捕まる道を選んだ、逃げることもできたけれど逃げなかった、ということです。
これ、考えようによっては自殺ではないでしょうか。冒涜的な意図はありませんが。
「自殺は罪だ」と言うクリスチャンの始祖とも言うべきイエス・キリストが自殺だったとすると、これはかなりの皮肉ですね(笑)。
「それは全人類を救うためだ。人類への愛のためだ」という擁護意見もありそうですが、であるなら「動機が良ければ自殺も許される」ことになり、「自殺は罪だ」という説は崩れます。
それにしてもイエスは特殊な状況にもあります。彼が十字架で処刑されたのは「父なる神」の御意志でもあったのですから、その意味では「父に殺された」とも言えそうです。何だか混乱しますね。
混乱ついでにもう一つ書きますと、「父なる神」と「御子なるイエス」は根源的に同一の神ですから、やはり「自らの意志で死を選んだ」とも言えそうです。わかりやすく言いますと、「神が十字架で自殺した」。
さて、本当のところはどうなのでしょう(笑)。
いずれにせよ、一部の教会で安易に語られる「自殺=罪」という図式が、実はそう安易に語られるべきものでないんだ、ということがおわかりいただければと思います。
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本記事はメルマガ第48号から一部抜粋、編集したものです。
罪とはなんぞや、と言うことになると、カトリック、正教会、プロテスタント各派によって、とらえ方が千差万別であり、まとまらないでしょう。
返信削除私見では、神への不服従と言うことだと思いますが・・・。
ユダヤ教などでは、ユダヤ教の律法に違反することというように、ある意味明確ですが、一口に罪を犯すと言っても、キリスト教各派によって、キリスト教的律法の中身が異なるので、よくわかりません。
私見に戻りますが、神への不服従の具体例は、「神を愛しなさい。自分を愛するがごとく、他の人を愛しなさい。」という黄金の律法の反対のことをすることになりますね。
自分を愛さないことの、最大の具体例は、自分で自分の命を奪うこと、つまり自殺をすることになりますね。
ただ、自分で自分の命を奪うことが、神の意志と反することかどうか、具体例によっては可である場合があるかどうかが問題になりますね。
管理者が医療関係者であれば、このリンク先もご覧ください。
返信削除https://gansupport.jp/article/life/money/money01/3407.html
キリスト教では伝統的に自殺は禁じられております。ところが、聖書には自殺を禁じる記述はひとつもありません。
返信削除それどころか、昔のユダヤ人は日本人とよく似ていて、敵国の異邦人に捕まり虜囚の辱しめを負うくらいならばと、自決を選ぶユダヤ人の話しがいくつもあります。
ただ、聖書のなかで否定的に描かれる人物の最期が自殺というのはあります。たとえば、イスカリオテのユダや、ダビデの前に王であったサウルがそれです。
それ以外の自殺についての否定的な見解は、後世の神学者たちの解釈によります。
たとえば、自殺は自分を殺すことだから、殺人の罪だとか。神が「はなはだよかった」と言って創造した命を自ら終わらせることは神への反逆だとか。
遠藤周作は、神が人間の罪をキリストにおいて背負ったのだから、人間は自分を捨てたくなっても背負っていかなければならない、と言いました。
しかし、私は自殺を罪だとは思いません。自殺をする人は苦しんで自殺をするのです。苦しまないで自殺を選ぶ人などいるのでしょうか?
人が苦しみのゆえに自殺を選んだとしたら、それは自殺を選んだ彼の罪ではなく、彼を自殺まで追い込んだ人間や社会の罪なのです。彼を助けられなかった私たちの罪なのです。
それゆえ、彼は神の憐れみを受けるべき立場であって、神の怒りを受けるべき立場ではありません。彼は「乞食のラザロ」と同じであって、「彼は生前、悪いものを受けたのだから、ここ(神の国)では慰められる」のです。クリスチャンは自殺者を呪うことなどするべきではなく、むしろ「神のもとでは、彼に平安がありますように」と祈るべきなのです。
自殺を否定する人は恵まれている人です。精神的にも物理的にも「この世」に居場所を持つことができる人です。そのような人に自殺者の何が理解できるというのでしょうか?
自殺者が何と戦っていたのか?彼が何を背負っていたのか?誰が理解できるでしょうか?自分と同じような境遇に見えても、「この世」に自分の居場所を見出だせない人もいるのです。
自殺を罪と見なす人は、鬱病を弱さと見なす人と同じです。自殺者も、鬱病の人も、彼自身の重力に耐えているのです。誰も重力には逆らえない。「君も飛べる!」なんて能天気な言葉は重力とは関係のない恵まれた人の偽善でしょう。
今のキリスト教は勝者の宗教です
削除今のキリスト教世界では強者が正義、勝者が法律なんです
イエスは虐げられるもののために福音を語りましたが
現在ではキリスト教世界の人間たちが自分たちの搾取や略奪を
正当化するためにイエスの発言を文字列にしたものを最大限利用しています
神様のすることは絶対正義であり、逆らうものは殺してよいのです
そういうことを「人間」が定義しているんです
神様と人間は断じて対等ではありません
しかし神様は一方的に正義を行おうとしてるのではない
あくまで人間とのかかわりの中で癒そうとしておられる
今キリスト教世界で広められている神様は
あまりにも危険で話が通じないイメージです
「キリスト祈りの家教会」や「牧師の妻こころのブログ」
「地の果て宣教教会」など、ネット上で盛んに発言しているキリスト教指導者の
いうことは、シンプルで残酷です
事情があって教会に行かなくなった人たちがネットで御言葉に触れようとしているうちにそういうサイトにたどり着き、絶望して
キリスト教を続々と見限っています