ある週末、私の教会にシンガポールから宣教チームがやって来ました。牧師が英語を話せるからか、海外からのゲストが多かったのです。
日曜に急にやって来ることもありました。飛び入りゲストみたいな形です。それでも礼拝で歌ってもらったり踊ってもらったりしましたから、今思うと何でもありな礼拝(教会)でしたね。毎週何が起こるかわからない、みたいな(笑えるようで笑えない話です)。
さてそのシンガポールのチームですが、20代の若い男女の皆さんでした。いろいろ話す時間はありませんでしたからよくわかりませんが、みな好青年に見えました。目が輝いていて、よく話し、よく笑う、いかにも健康的な人たちです。
彼らが礼拝で歌ったか踊ったか忘れましたが、リーダーである青年がマイクを持って「証(あかし)」をしたのはよく覚えています。とても印象的な話だったからです。こんな感じでした(細部はうろ覚えなので適当です)。
ある時、宣教旅行でアジアの貧しい地域を訪れた。そこの子供たちに洋服を寄付する計画だったので、全員のスーツケースに詰めるだけ洋服類を詰めて行った。全部で100人分くらいはあったと思う。
さて最初の村に着いた。そこの子供たちは50人くらいと聞いていた。余裕で配れる計算だ。しかし連絡ミスか何かで、実際は300人くらいいた。チームの皆は驚いた。けれど、今更どうにもできない。皆でスーツケースに手を置いて、「全員に配ることはできませんが、どうぞこれで村の子たちを祝福して下さい」と泣きながら祈った。
さて宣教のプログラム(歌とか踊りとか)が終わって、服を配る時がきた。
事情を知るチームのメンバーたちの心境は複雑だった。服が足りなくなって、子供たちが落胆するのが目に見えるようだったから。
彼らの心配をよそに、子供たちの行列ができた。約300人の長い長い行列。皆服をもらえると喜んでいる。リーダーはいたたまれなくなって、スーツケースを両開きにすることができなかった。隙間から手を入れて、1人分ずつ服を取り出すようにした。配りながら、次第に涙が出てきた。こんなことならもっと頑張って服を集めれば良かった、主よお許し下さい、と祈りながら配り続けた。
しかし不思議なことに、100人に配っても、150人に配っても、服はなくならなかった。スーツケースの隙間から手を入れると、服はまだまだ沢山あるように感じられた。そして結局200人、250人、300人と配り終えてしまった。最後の1人に服を渡して、スーツケースを両開きにしてみたら、ちょうど空になっていた。
「5つのパンと2匹の魚を増やされたように、主は服をも増やして下さったのです」とリーダーは「証」しました。教会の皆は拍手喝采。泣いた人もいたかもしれません。私も一応感動したのですが、そのリーダーが情感たっぷりに話すのが、実は若干引っ掛かりました。「感動させてあげよう」みたいな意図を感じたからです。
そのような奇跡体験を、私は教会生活を送る中で時々聞きました。車のガソリンが次の給料日まで減らなかったとか、高速を走っていたらいつのまにか(あり得ない短時間で)目的地に着いていたとか。その他にもいろいろ。皆さんはいかがでしょうか。
洋服が増えた話を否定する気はありません。減らないガソリンも、高速道路上の瞬間移動も、否定しようとは思いません。なぜか? 私自身が見ていないからです。起こったという証拠もないし、起こらなかったという証拠もありません。
「そうではない。見ないで信じるのが信仰だ」とか言われそうですが、だったら私も言わせてもらいましょう。実は私、教会で頑張っていた頃、一度死んでよみがえったんです。はい、見ないで信じて下さい。
それはさておき、現実的に考えて、これらの話は次の3つのうちの1つです。
1つは、紛れもない事実。
もう1つは、何かの勘違い。
最後の1つは、残念ながら作り話。
奇跡と思ったら勘違いだった、という話は割とあります。
たとえば「キマジメくんのクリスチャン生活」でも書きましたが、某有名神社で「霊の戦い」をしていたら、ドタンバタンと戦うような音が聞こえてきて、「これは天使と悪魔が戦っている音だ」と皆で感動した、というエピソード。実際は近所の武術道場の稽古の音が聞こえてきただけでした。これ、実話です(笑)。
また知人が乳癌と診断されて、さっそく手術を受けることになりました。しかし手術2日前に切除範囲を決める検査をしたら、なんと癌でなかったと。その知人はノンクリスチャンで、誰も祈っていなかったはずですから、奇跡だと言うことはできないでしょう(これがクリスチャンだったら絶対に奇跡だって話になると思います)。
ちなみに医療現場では、時々こうした不可解なことが起こるそうです。
このように、奇跡っぽいけど奇跡じゃなかった、というケースはけっこうあります。あるいは思い込みだったり、錯覚だったりすることもあります。いいや絶対に錯覚なんかじゃない、とは残念ながら誰も言うことはできません。人間の感覚は簡単に狂うものだからです。
「奇跡」や「癒し」のトピックでいつも思うのが、「話に聞くだけで実際に見られない」という点です。私はクリスチャンを20年以上やっていますが、こんなことが起こった、あんなことが起こった、といつも聞くだけです。
ぶっちゃけた話、「奇跡」はその性質上、どうしたって疑われます。だから話す人は、疑われる覚悟が必要です。それでも教会の中でなら、自信をもって話せるかもしれません。圧倒的ホームだからです。では未信者が相手だったらどうでしょう。真っ先に疑われますよ。圧倒的アウェイです。確実な証拠を見せない限り、信じさせることはできません。
というわけで、現代の「奇跡」について話すなら、証拠が絶対必要だと私は思うのです。もちろん聖書中の「奇跡」は証明できませんけれど、現代の「奇跡」であれば、スマホで録画しておくとか、いろいろやりようはあるでしょう。(逆に言うと、証拠がないなら話すべきでない、ということです。)
私はいつも思います。どうせ「奇跡」が起こるなら、大勢が見ている前で、絶対に間違えようのない方法で起こってくれればいいのに、と。でもそういう奇跡は聞いたことがありません。「こんな奇跡が起こった」と話す人は多いのですが。何故でしょうね。
クリスチャンだからこそ聖書に記されているような種類の奇跡が自分にも起こって欲しいと願うし起こりうるとも信じているのでしょうね。若い時にやんちゃをしてエイズ感染された男性の方が知り合いの中にいました。カリスマ派教会に通われて信仰を持ち結婚もされ一人の子供さんにも恵まれました。お会いした時期に”祈りでエイズが完治された。自分はもうエイズ感染者ではない。でもそれを証明するための検査料が高くてその資金を捻出できない。でも絶対にエイズは消えている”と熱く語っておられました。ですがその2年後に亡くなられたとお聞きしました。原因はエイズでした。 ”カリスマ派教会に通う人々は幸いである。 他の教会の信徒より大きな希望が与えられる”
返信削除「他の教会の信徒より大きな希望が与えられる」というのはうまい言い方ですね。「大きな希望」なのか「大きな嘘」なのかよくわからないところもあると思いますが(笑)。
削除そういう話はよく聞きますね。とりわけ創価学会関係者ですが。癌になった。学会に誘われた。信心した。癌が治癒した。選挙などの学会活動に頑張った。癌が再発した。そうしたらそれは信心が足りないからだと言われた。
返信削除まあ、良くなったら信心が足りているからだ、悪くなったらそれは信心が足りないからだ。
この手の理由は何にでもいけまして、信心が足りているから金が儲かったが、足りていないから貧乏になったなどなど。
プロテスタントの一部にも、「良いこと=祝福』「悪いこと=悪魔の仕業」という考え方が蔓延していると思います。好意的な出来事はなんでも祝福であり、恵であり、奇跡であるという。完全な思い込みですが、宗教にはそもそも「思い込み」という要素が含まれているのかもしれません。
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