ご存知の方もいらっしゃると思いますが、中国の宣教師ブラザーユンさんの著書『天国の人』が2004年に出版されて、その界隈でちょっとした話題になりました。私の教会にも何冊か回ってきたと記憶しています。本人が来日した際は特別集会が開かれて、大きなホールが満員になりました。
いわゆる「天国」ブーム(?)だったのですね。
そのブラザーユンさんが提唱したのが Back to Jerusalem(バック・トゥ・エルサレム)運動です。直訳すると「エルサレムに戻ろう運動」みたいな。
福音がエルサレムから始まって、ヨーロッパ各地を巡って大西洋を越え、南北アメリカ大陸に広まり、ついに太平洋を越えて、ここアジアまでやって来た。だから今度は私たちアジア人が、シルクロードを経由して西アジアに福音を伝え、最終的にエルサレムまで戻るんだ、みたいな話です。エルサレムを中心とした福音の世界一周旅行、みたいな考え方ですね。
その運動が今どうなっているのかさっぱりわかりませんし、それが良いとか悪いとか言うつもりもありません。また福音が歴史的に伝わってきた経路を考えるなら、たしかに「アジアから中東方面に進むのが妥当かもしれない」とも思います。
けれど、最終的にエルサレム(イスラエル)を目指す、というあたりがちょっと疑問です。福音が全世界に伝わるのは賛成ですが、べつにエルサレムとかイスラエルとか、強調しなくていいと思うからです。大切なのは福音の内容ですよね。それともエルサレムとかイスラエルとかの「場所」の方が、それより大切なのでしょうか。
エルサレムを最終的なゴールとする考え方は、イエスの教えとの整合性が取れないようにも思います。(私の理解では)イエスの教えは、時代や場所や環境に縛られるものではないからです。たとえば「隣人を愛せよ」というオーダーは、エルサレムにいる見知らぬ誰かのためのものでなく、自分のすぐ隣にいる誰かのためのものです。
エルサレムが殊更大切だとか、イスラエルの文化に倣うべきだとか、親ユダヤであるべきだとか、そういういろいろを総合したいわゆる「シオニズム」は、それ自体が一つの宗教みたいなもので、イエスの教えとは根本的に関係ない、と私は考えます。
皆さんは、どうお考えでしょうか。
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本記事はメルマガ第50号(テーマ:クリスチャン・シオニズム)から抜粋・編集したものです。
これも多くの場合、誤解されておりますが、イエスは博愛主義のコスモポリタンではありませんでした。
返信削除むしろ、イエスは「ユダヤ教原理主義者」でした。この場合、「原理」をどこに置くかが問題で、パリサイ派は律法として書かれた「文字」に原理を置いたのに対し、イエスは書かれた文字の行間にある「神の意志」に原理を置きました。
離縁の是非についてとわれたイエスが「モーセは離縁を認めたが、あなたがたが頑なだからであって、はじめからそうではなかった」とか、「安息日は人のためにあるのであって、安息日のために人があるわけではない」とかが、その例です。
これはキリスト教原理主義にも言えることですね。「聖書や戒律の文言にこだわるあまり、人と人との間に破壊と混乱をもたらすなら、それは神の意志に従ったことになるのか?大切にすべき「原理」は聖書の文字か? それとも神の心か?」というわけです。
イエスは、一人のユダヤ教徒として、ユダヤ人のために、当時のユダヤ教の宗教改革者としてあらわれました。昔は宗教と社会がひとつでしたから、イエスは社会改革者でもありました。
イエスは、弟子たちを派遣するとき「異邦人の道やサマリヤに行かず、失われた羊のもとに行け」と言い、異邦人の女がイエスに癒しを願ったときにも「子供たちのパンを犬にやるのはよくない」と言い、サマリヤの女に対しては「救いはユダヤ人から来る」と言いました。
まぎれもなく、イエスは「ユダヤ人のために」来たのです。では、イエスは民族主義の差別主義者だったのでしょうか?
このイエスのユダヤに対する偏愛を理解するには、旧約聖書の預言書を理解する必要があります。
預言書を一言で言うと「神の意志に背いたユダヤ人は、今辛い目にあっているけれども、神は必ずユダヤ人を救う」ということです。
では「ユダヤ人の救い」とは何かというと、神に背いた苦難によって自分たちの罪を自覚し、悔い改めて神の意志にかなうような知恵と道徳に優れた民族に生まれ変わる、ということです。
それで、ユダヤ人は経済も権力もない弱小民族だけれども、神の裁きによって周辺の超大国が経済力と権力を失うとき、知恵と道徳に優れたユダヤ人が世界のリーダーシップをとり、ユダヤ人を再生させた「ヤハウェ」の名が、世界で唯一の「神」の名として 栄光を受ける、というわけです。
イエスもパウロも、このビジョンに従っているのです。だから、ユダヤ人にこだわります。
パウロのローマ書10章に書かれているように、ユダヤ人を救いに来たイエスをユダヤ人が殺してしまい。代わりに異邦人がイエスを受けいれたけれども、ユダヤ人は神に見棄てられたわけではなく、異邦人の救いはあくまで「過程」であって、救いの「本丸」はユダヤ人にある、というわけです。
ユダヤ人を再生させてから、ユダヤ人の使命として全ての人間を救うのではなく、先に福音を異邦人に満たして、最後にユダヤ人を救う。それがイエスを捨てたユダヤ人に対する神の救いだ、というわけです。
おそらく、ユダヤ人にこだわる福音派の教会は上記のことを念頭に置いているのでしょう。
しかし、問題はユダヤ人の救いが必ずしも親ユダヤとなるわけではないことです。
イエスは、神と伝統と同胞のユダヤ人を愛しておりましたが、しかし、だからといってユダヤ人の現状を肯定するようなことはしませんでした。ユダヤ人を愛すればこそ、ユダヤ人が神の祝福に価する民族となるように、悔い改めを呼びかけ、現状を批判しました。それゆえに、イエスは宗教と社会の変化を好まない人々によって殺されたのです。
イエスは神殿を尊重しておりました。他のユダヤ人と同じく、イエスも神殿で祈り、教えを説きました。神殿で金儲けをする商人たちを「祈りの家を強盗の巣にしている」と言って追い出しました。エルサレムが崩壊することを悟って涙を流しました。復活の後、弟子たちにエルサレムに残って祈り続けるようにと指示しました。
しかし、イエスは建物が神殿ではなく、神の霊が宿る場所が神殿あって、建物は近いうちに崩れるけれども、イエス自身が神殿になると言いました。サマリヤの女に「エルサレムでもここでもない場所で父を礼拝するときが来る。今、すでに来ている」と言いました。
ユダヤ人の救いが親ユダヤとなるとは限りません。むしろ、クリスチャンはイエスの福音の立場から、ユダヤ人の罪を諫めなければならないのではないでしょうか?
パレスチナ人の苦しみと迫害の上に築かれた神殿に神の平安があるでしょうか?神よりも経済力と軍事力を愛して築かれた国家に、神の平安はあるのでしょうか?
シオニズムを批判すると反ユダヤ主義者と言われるでしょう。しかし、かつてナチスがユダヤ人にしたことと同じことをユダヤ人がパレスチナ人にしているのです。
この事実に目を背けることはできません。どんなに聖書に忠実なクリスチャンを自称しようとも、正義に目をつむる者は神にも目をつむるのです。
義人いませんね・・・一人も・・・
削除教会の中でもなんだか成功体験を「おあかし」ってよんで
披露しあうばっかりでもううんざりしちゃって
とうとう今年はクリスマスすら教会に行かずに過ごしました
きっと教会にいる人々は私を「サタンの子である」と
ジャッジしているでしょう
もうね、キリスト教はずーーーーーーーーーーーーーっとそうしてればいいよ
地球が滅ぶまでずーーーーーーーーっとそうしてたらいいよ
私は無教会主義で教会に行きません。洗礼すら受けてませんから、クリスチャンですらないのかもしれません。私も正統を自慢するクリスチャンからすれば、邪宗の徒かハンパ者でしかありません。
削除クリスマスも、もちろん教会に行きません。自分自身も貧しき者として、生活のために落ち着いてクリスマスなんか過ごす余裕のない人々と一緒に仕事をしていたほうが、よほどいい。
キリスト教という宗教は、まちがいなく没落します。しかし、それはよいことではないでしょうか?マイノリティで誰からの共感も得られないとすれば、自分が信じているものを問い直すよい機会となります。
周りから「イイネ!」としか言ってもらえない人は変化も深みもない哀れな人です。
しかし、キリスト教という宗教がなくなっても、イエスという男は生き続けるのではないでしょうか?私たちの世界から貧しさ、排除、いじめ、差別、無関心が存在するかぎり、「最も小さくされた人の側に立て」と言ったイエスが語られないことはないと思うのです。
聖書やイエスの言葉を断片的に継ぎはぎして都合よく利用しようとする人間がいるでしょう。しかし、そんなことで誤魔化すことはできません。必ず「小さき者」の側に立って嘘と偽善を暴きたてる改革者があらわれます。
イエスという男はダイナマイトのようなものです。硬直してかたくなったキリスト教を内側から爆破してリセットさせる改革者を常に生みだし続けます。
イエスを神の子として信じようが、道徳の教師として従おうが、まったく問題ではありません。
「イエスは墓から甦った」というときの「墓」とはキリスト教という建物と組織のことだと考えることもできるでしょう。
キリスト教会はイエスを殺します。しかし、イエスは復活する。「彼らが黙れば、石が叫ぶだろう」とイエス自身が語るとうりです。宗教や社会から石ころのように扱われた人々がイエスの名を叫ぶだろう、ということです。