聖書は子供への鞭(体罰)を勧めているのですか?

2018年12月27日木曜日

教育

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 ある教会がベビーブームを迎えました。同時期に3人、4人と信徒の赤ちゃんが生まれたのです。教会は一気に「育児仕様」になりました。パーテーションで簡易的な母子室が作られ、中で礼拝が見られるように、テレビやカメラ類が設置されました。ケトルや大きなゴミ箱も置かれました。テーブルや椅子の角には緩衝材が、冷蔵庫にはチャイルドロックが取り付けられました。

 礼拝していると、向こうの方から赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる、そんな教会になったわけです。「類は友を呼ぶ」かどうかわかりませんが、子育て世帯の若いクリスチャン家族も何組か転入してきました。まさにベビーブーム教会。

 それから数年後、教会は幼児が走り回る無法地帯と化していました。礼拝中、あちこちから走る足音や叫ぶ声が聞こえてきます。それを追いかけたり黙らせたりする親の苦労や苛立ちや溜息が、空気中に微妙に漂う、そんな教会に。育児とはなんと大変な労働でしょう(本当にご苦労様です)。

 そのうち牧師が、礼拝後に「育児セミナー」みたいなものを開くようになりました。幼児ギャングの無法地帯に、法の秩序をもたらそうとしたのかもしれません。そのトピックの一つに「躾」がありました。要はこういう内容です。
「親に不従順な子供には、罰を与えなければならない」

 親に逆らったり言うことを聞かなかったりしたら鞭を与えろ、ということです。早い話が体罰。実際には鞭を使うのではなく、シャモジや手でなどでお尻を叩くのですが。  箴言22章15節「子供の心は愚かさに繋がれている。懲らしめの鞭がこれを断つ」が根拠のようです。解釈の是非は置いておくとして。

 以来、親の言うことを聞かなくて癇癪を起こした子とか、何かしでかした子とかが、親に手を引かれて教会の奥に消えて行くのを、度々見るようになりました。彼らはだいたい泣いたりブスッとしたりしながら戻ってきます。何があったかは、推して知るべし。

 その「懲らしめの鞭」が功を奏したかどうかわかりませんが、教会は次第に落ち着きを取り戻しました。単に幼児たちが成長して、無駄に騒がなくなっただけの気もしますが。

 そんなある時、教会にクレームの電話が掛かってきました。教会裏で子供が虐待されているのを見た、お前の宗教は子供を叩くよう教えるのか、と。たぶん教会の外(裏口)に出て「懲らしめの鞭」を与えた親がいたのでしょう。それを近所の人が目撃したのだと思います。牧師がその電話にどう答えたか知りませんが、以来「裏口で躾するのはやめて下さい」とのお達しが。

 つまり「懲らしめの鞭」を与えるのが悪いのでなく、未信者に見られるのが悪いのだ、というのが牧師の主張です。

 これ、今思うと相当気持ち悪いですね。親である信徒たちが、一斉に体罰を行うようになったのですから。しかもそれが聖書の教えであり、信仰だと信じているのですから。

 ここで体罰の是非について語るつもりはありませんが、私個人としては、体罰は前時代的かつ効果ゼロの、完全に誤った教育方法(躾?)だと考えています。効果ゼロどころか、不必要な歪みを子供に残してしまう可能性が高いですから、有害でさえあると思います。

 それでも体罰するかしないかは、各親に委ねられています。実際のところは。家庭内で何が行われているのか、部外者にはわかりませんから。
 しかしそういった教育方針を「教会として」「キリスト教信仰として」「神からの勧め」として、信徒に事実上の強要をするのは駄目ですね。教会や牧師が口出しすることではありません。

 体罰を与えるべきかどうかを含めて、子供にどう接するべきか、どう教育していくべきかは、各親がそれぞれ考えるべきだと思います。そして聖書を参考にするのであれば、私はシンプルに、イエスが福音書中に示した愛や行動を模範にすれば良いのではないかな、と思います。実際のところは、なかなか大変なことだと思いますが。

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