ある牧師が「新会堂建築」を言い出しました。「神に語られた」と喜んで。本当のところはわかりませんが。
それで新会堂の利用目的として、「世界宣教の拠点」とか「リバイバルのセンター」とか、抽象的なことを言うようになりました。その中の一つがこれです。
「バリアフリーな教会にして、誰にも開かれた教会にする」
「バリアフリー建築」という言葉自体は一般的に言われていましたから、時代に即した考え方だったと思います。ただ本気で障害者を迎える気があったかどうかは疑問です。もともと障害のある方はほとんどいませんでしたから。
数年後、紆余曲折を経て新会堂が建ちました。でもほとんどバリアフリーではありませんでした。エントラスに段差解消の三角板が置かれたのと、トイレに手すりが付いただけです。それ以外のところに手すりはなく、車椅子で二階に上がることもできません(一階もソファや椅子で一杯でしたから、そもそも車椅子で入ることはできませんでしたが)。
おかしな話ですね。「バリアフリーな新会堂を作る!」と言っておきながら、できたものは全然バリアフリーじゃないのですから。「おいっ!」ってツッコミ入れるべきところですが、代わりに出てくるのは「ハレルヤ〜」です。
このあたりが、ものすごくいい加減だったと思います。皆さんの教会は大丈夫でしょうか。
その教会だけかもしれませんが、とにかく何でも「イメージ重視」でした。綺麗な会堂、統一された色使い、光や音の完璧なタイミング、舞台に上がる見目麗しい信徒たち、元気に賛美する雰囲気、泣きながら祈る雰囲気、障害者に優しく接する雰囲気……。
それらの「イメージ」がそのままホームページに反映され、とっても素敵な教会に見えます。でも実際には、多くのことが「見た目だけ」「口先だけ」でした。
そのうち、「心のバリアフリー」みたいな言葉も使われるうようになりました。設備的なバリアフリーが整っていなくても、いろいろな障害者を温かく迎える「ハート(心)」だけは持っていよう、みたいな意味ですね。
でもそれも結局「口先だけ」です。具体的にどうやって障害者を迎えようとか、こういう障害にはこういう支援が必要だとか、こういう専門機関と連携しようとか、そういうプラクティカルな話は一切出ませんでしたから。自分たちが気持ち良くなっていただけです(もちろん、そこまで専門的なことを教会がしなければならないとは思いませんが。いかに口先だけだったか、という話です)。
やはり「イメージ」なのですね。教会という小さな世界の中で、綺麗なイメージを皆で保つことで、立派な信仰生活を送っていると思い込んでいるのです。その「バリアフリー」は障害者のためでなく、自分たちのためでしかありません。ちょっと言い過ぎかもしれませんが、そんなのは「教会ゴッコ」じゃないかと私は思いますね。
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※本記事はメルマガ第47号から一部抜粋、編集したものです。
メルマガ第47号テーマ「教会と障害者」
・利用される障害者
・誰のためのバリアフリー?
・障害の癒し?
・神の御心は……?
・教会のポテンシャル
・優生思想とキリスト教
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